横田めぐみさん Megumi Yokota | |
北朝鮮の発表:死亡 |
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拉致:昭和52(1977)年11月15日 新潟市 | |
昭和52(1977)年11月15日夕刻、新潟市の中学校から帰宅する途中で拉致された。この事件は平成8年10月号『現代コリア』に朝日放送の石高健次氏が寄稿した論文で言及されていた「中学校一年生の少女拉致」が端緒となり、同年末その少女が横田めぐみさんであることが判明、翌平成9(1997)年1月23日西村真悟衆議院議員(現自由)が政府に質問書を提出、さらに2月3日には予算委員会で質問し、橋本総理も調査中であると答弁した。
警察庁が拉致事件と認定 |
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横田(よこた)
めぐみさん 1964年10月5日生 新潟県新潟市 当時 新潟市立寄居中学校1年生(13歳) |
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* 1977年11月15日、中学校の部活動を終えて下校中、新潟市内の自宅近くで友人と別れた後、消息を絶つ。 |
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2004年11月 第3回日朝実務者協議を受けて、家族会・救う会が発表した疑問点 |
(1) 横田めぐみさんの夫とされるキム・チョルジュン氏からDNA鑑定を行うための血液・毛髪採取並びに本人特定のための有力な証拠となる写真の撮影が日本代表団側からの申し出にもかかわらず拒否され、本人確認・特定ができなかった。
(2) 横田めぐみさんの夫とされるキム・チョルジュン氏の再婚相手の子供でキム・ヘギョンさんの異母弟とされるチョルボンと称する男の子が横田めぐみさんの実の子供である可能性があるため、横田家は上記(1)同様血液・毛髪採取の要請をしていたにもかかわらずそれが実現されなかった。 (3) 2002年には、49号予防院にめぐみさんの死亡日時を覚えている人はいなかった、と説明しながら、今回なぜ、94年4月13日と死亡年月日を特定できたのか。特定したのは誰か。 (4) 夫とされるキム・チョルジュン氏は2年前の政府調査団にめぐみさんの両親への手紙を託した。その時なぜ、彼から死亡時期を確認しなかったのか。また、2年前には「遺骨は夫が持っていったまま」という説明だったが、2年前に夫から遺骨がどこにあるのか聞いていなかった理由は何か。 (5) 提供された3枚の写真のうち2枚は、めぐみさんと写真の背景に不整合な部分が多く、合成加工した痕跡がある。なぜ、写真を合成せねばならないのか。(写真の合成について) (6) 自殺に使った紐は事前に衣類を裂いて作った紐を用意していた、と説明されたが、いかにも不自然ではないか。 (7) 骨壺に入れて火葬した遺骨を自宅で保管するなどという習慣は朝鮮文化には全くない。また、わざわざ、自宅で保管したのなら、なぜ娘であるキム・ヘギョンさんは一切そのことを知らなかったのか。 (8) 北朝鮮では、土葬して2年半後の遺体はまだ白骨化しておらず、腐敗した肉が付いたすさまじい状態であるはずで、それを掘り出すことなど通常考えられない。 (9) 火葬するとDNA鑑定ができなくなることを知って、わざわざ火葬した別人の骨を提供したのではないか。 (10) もし最悪の場合であったとしたら、死亡時期と死亡理由が金正日政権の説明通りかどうかが大問題になる。骨相学鑑定では死亡時期は特定しにくい。彼らがそのことを知って、2年前に生きていためぐみさんを殺害した可能性すらありうる。 (11) 今回の協議でめぐみさんの死亡状況について、日本代表団は2年前に続いて再度「49号予防院」を訪れ担当医師と面談したが、この病院の医師らが死亡診断書と患者死亡台帳を捏造した本人だ。なぜ同じ人物から話を聞いたのか。今回の説明が真実だとなぜ分かるのか。 (12) 今回、「1981年から84年までは、田口八重子さんと一緒に生活していた」と説明されたが、田口さんは1981年7月から1983年3月まで金賢姫とともに暮らしていたことが金賢姫の証言で判明している。 (13) めぐみさんが金正日政治軍事大学内で目撃されたことを金正日政権は否定し続けている。ところが、今回提出されためぐみさんのモノクロ写真の背景は同大学の出版社前であると元工作員安明進氏が証言した。この証言が正しいなら、めぐみさんが同大学に出入りしていたことが証明される。 (14) 84年以降の報告がなく、いきなり93年4月以降入退院を繰り返し94年4月に死亡と報告するのは不自然である。 (15) 拉致実行犯は命令違反で職務停止になり、復帰後の2000年11月に脳出血で死亡と報告されたが、客観的証拠がない。 ★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2004.11.25-2) 従来、家族会・救う会はめぐみさんの北朝鮮側情報について下記の点を矛盾点・疑問点として政府に提出していた。 死亡日に関して めぐみさんの「夫」に関して |
2004年11月第3回日朝実務者協議の際、北朝鮮から提出された横田めぐみさんの写真 | ||
第3回日朝実務者協議以後の報道・証言 |
遺骨は横田めぐみさんとは別人 政府確認 北朝鮮による日本人の拉致問題をめぐる第3回日朝実務者協議で、政府調査団が平壌から持ち帰った横田めぐみさんのものとされる「遺骨」について日本政府は8日、DNA鑑定により別人のものと確認した。政府は同日中に北朝鮮側に鑑定結果を伝え、「極めて遺憾だ」と強く抗議する。与党内に北朝鮮側の対応に強い不満が出ることは確実で、経済制裁を求める声が強まりそうだ。 細田官房長官は8日午後の記者会見で「非難せざるを得ない。平壌宣言の精神に反するものであることは明らかだ」と語った。経済制裁については「他の資料を精査中で、その鑑定結果を待って対応を検討したい」と語り、残る12.5万トンの食糧支援についても「さらなる支援を行うのは難しい。ただちに北京ルートで(北朝鮮に)抗議する」と述べた。 遺骨の鑑定は帝京大学法医学研究室が担当。その結果、遺骨は複数の人のDNAが検出され、いずれもめぐみさんのDNAとは異なった、という。 遺骨は11月9日から14日まで平壌で開かれた日朝実務者協議で、めぐみさんの夫とされるキム・チョルジュン氏が提供した。めぐみさんについて北朝鮮側は93年3月に平壌市内の病院でうつ病で自殺したと説明していたが、第3回協議で「94年3月に入院し、4月に死亡した」と死亡時期を訂正していた。 北朝鮮側の説明によると遺体は埋葬されていたが、夫とされるキム・チョルジュン氏らが96年秋に掘り起こし、焼いて骨つぼに入れたという。 http://www.asahi.com/national/update/1208/019.html |
横田めぐみさん:「夫」の試料はDNA鑑定不可能 先月の日朝実務者協議で、政府代表団が面会した横田めぐみさんの夫だったキム・チョルジュンと名乗る男性について警察当局は、政府代表団が持ち帰ったこの男性の試料をDNA鑑定した結果、「鑑定は不可能」との結論を出した。代表団は持ち帰った試料を明らかにしていないが、男性は毛髪や血液など鑑定が可能な材料の提出を拒否していた。(毎日新聞) |
めぐみさん 工作員?に日本語指導 地村富貴恵さん証言 帰国した拉致被害者、地村富貴恵さん(49)が、横田めぐみさん=拉致当時(13)=について、「『スクヒ』という女性に日本語を教えていた」と証言していたことが十日、分かった。「スクヒ」。北朝鮮の工作員のなかには同じ発音の女がおり、この「スクヒ」も工作員との見方が強まっている。また、周辺を探ると、「北」が隠す工作機関との接点も浮上する。 関係者によると、地村さんは拉致被害者家族らと面会、「スクヒ」の名前を口にした。地村さんはこの女性の素性はよく知らないとみられる。 地村さんは田口八重子さん=同(22)=についても「『オッカ』という女性に日本語を教えていた」と証言していることがすでに明らかになっている。 「オッカ」は大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫元死刑囚(42)の偽名「金玉花(オツカ)」と一致する。証言は「田口さんは金元死刑囚の日本人化教育係『李恩恵』に間違いない」との日本の捜査を裏付ける。 一方、韓国当局の調べなどによると、金元死刑囚は工作員養成機関「金星政治軍事大学」(九二年に金正日政治軍事大学に改称)でもう一人の女工作員と一緒に一年間、訓練を受けた。その工作員が「金淑姫(スクヒ)」だ。 金元死刑囚は自叙伝「いま、女として」(文芸春秋)で、この工作員のことをつづっている。 《年は淑姫のほうが一つ下でしたが、非常に勉強好きで、プライドが高く、私たちは通ずるものがありました》 めぐみさんについては「九五年ごろ、金正日総書記の子息の家庭教師をしていた」との亡命者情報もあるが、地村さん証言や金元死刑囚の話などを総合すると、工作員にも日本語を教えさせられていた可能性が高い。 同大は「695部隊」の隠語で呼ばれ、原敕晁さん=同(43)=を拉致した実行犯、辛光洙容疑者(75)も訓練を受けた。「北」はその存在を認めていないが、元工作員の安明進氏(36)は同大で訓練を受けたとしている。 めぐみさんを除く七人の「死亡報告書」を作製した「695病院」も同大の付属医療機関だ。工作員や工作機関と、被害者が置かれた状況も密接につながっている。(産経新聞) |
【証言】 ・富貴恵さんは「84年秋から86年7月まで田口さんと平壌市郊外の同じ地域に住んだ。田口さんの招待所にめぐみさんも同居していた」 ・証言では、84年から86年に地村保志さん(49)一家と蓮池薫さん(47)一家、田口さん、横田さんが平壌市郊外の同じ地区に住んだ。86年7月に地村さんと蓮池さん一家が平壌市の別の地区に転居。間もなく結婚した横田さん一家も近くに移ったという。 ・90年代に入ると、横田さんはしきりに「日本へ帰りたい」と訴えた。蓮池さんは「あともう少し。我慢して」と励ましたという。「脱走」を図り、2度目の時に保護され「精神が不安定で入院が必要だ」と判断された。蓮池さんは94年3月、義州の精神病院に入院する準備を手伝ったという。(毎日新聞) ・横田めぐみさん=同(13)=について、「北」は十一月の日朝実務者協議で「一九八一年春から八六年までの間、平壌郊外の招待所で日本語教育に従事し、八一年から八四年まで田口さんと一緒に生活していた」と説明したが、蓮池薫さん(47)と地村保志さん(49)が「招待所に引っ越してきたのは八六年八月」と証言している。(産経新聞) |
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横田めぐみさん「夫」は拉致韓国人 DNA鑑定で判明 |
北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの夫とされる人物が韓国人の拉致被害者である可能性が指摘されていた問題で、日本政府は11日、めぐみさんの娘、キム・ヘギョンさんと韓国の拉致被害者である金英南(キム・ヨンナム)氏が父子関係にある可能性が高いとするDNA鑑定の結果をまとめた。政府は今後、北朝鮮側にこうした結果を伝え、改めて被害者の帰国や真相の究明などを求める方針だ。 日本政府は2月、韓国側の協力を得て77~78年に北朝鮮に拉致されたとみられる男性5人の家族から血液、毛髪などを採取。キム・ヘギョンさんのDNA情報と符合するか、二つの大学に鑑定を依頼していた。この結果、両大学の鑑定結果は金英南氏の可能性が高いことで一致したという。 この鑑定結果を受け、政府関係者は、来日中の北朝鮮の金桂寛(キム・ゲグァン)外務次官らと改めて日朝協議を行う可能性がある、と指摘した。政府は北朝鮮側に直接鑑定結果を説明し、拉致問題での厳しい国内世論を伝えることで、北朝鮮側の前向きな対応を促したい考えだ。 めぐみさんの夫とされる人物については、「キム・チョルジュン」と名乗る男性が04年11月に日朝実務者協議のため平壌を訪れた日本政府の代表団メンバーと面会。めぐみさんの遺骨とされるものを代表団に提供したが、日本側の鑑定で遺骨は別人のものだったとの結果が出た。この男性と金英南氏が同一人物であるかどうかの確認も、できていない。 ◇ DNA鑑定で横田めぐみさんの娘キム・ヘギョンさんの父親である可能性が高いと判明した金英南(キム・ヨンナム)さん(44)は78年、友人と海水浴にいった韓国南部の島で行方不明になった。北朝鮮に拉致されたことが工作員の自供でわかって以来、母親は我が子の帰りを待ち続けている。 「生きているのなら、会いたい。どれだけ北で苦労をしたことか」。韓国全羅北道(チョル・ラ・プク・ト)・全州(チョン・ジュ)市に住む英南さんの母、崔桂月(チェ・ゲウォル)さん(78)はしわの刻まれた顔でつぶやいた。 78年8月。高校1年生だった英南さんは、友人数人と当時住んでいた全羅北道・群山(クン・サン)市から沖合の仙遊島(ソニュド)に海水浴に出かけ、ある夜、こつぜんと姿を消した。 警察に届け、付近を徹底的に捜索したが、結局、見つからずじまい。「遺体」も上がらなかった。水死したとあきらめ、服や愛用品も「火葬」した。 97年、情報機関の国家安全企画部(現・国家情報院)は、スパイ容疑で逮捕した北朝鮮工作員の供述から英南さんが北朝鮮に拉致されていたことが判明したと発表。数年前に同様の情報を知らされてはいたが、改めて生存の可能性が浮上した。 77~78年、英南さんを含め3件、5人の高校生が連れ去られた。 北朝鮮工作員に韓国事情を教育する「教官」として働かされていたと聞かされたが、詳しいことは何もわからなかった。いつしか忘れ去られつつあった英南さんに改めて注目が集まったのは、めぐみさんの夫と同一人物である可能性が高いと指摘された昨年になってからだ。 日本政府の担当者が2月16日、崔さんを訪ね、血液と毛髪を採取。DNA鑑定でめぐみさんの娘、キム・ヘギョンさんと親子である可能性があるとされた。活発だった英南さんの面影と、めぐみさんの夫の姿が重なり合わない。 韓国だけでなく、日本にも拉致被害者がいることを最近、知った。突然、子どもを奪われた悲しさと悔しさ、不条理さは、横田滋さん夫妻ら日本の被害者家族も自分たちも同じだろうと思う。 ◇ 〈横田めぐみさん拉致問題〉 77年11月15日夕、新潟市立寄居中1年だった横田めぐみさん(当時13)がバドミントンの部活動後に帰宅中、行方を絶った。97年2月、めぐみさんは北朝鮮に拉致された疑いがあることが、報道と国会質問で発覚した。 北朝鮮は否定していたが、02年9月17日の日朝首脳会談の際に拉致を認め謝罪したうえで、めぐみさんを含む8人は「死亡した」と伝え、娘キム・ヘギョンさん(18)の存在を伝えた。 北朝鮮側は02年9月に訪朝した政府調査団に対し、めぐみさんは「入院した後自殺した」と述べた。しかし死亡時期をめぐって説明が転々としたうえ、04年11月に日朝実務者協議のため訪朝した政府代表団に対し、死亡確認書などの書類についても捏造(ねつ・ぞう)したことを認めた。 このとき、夫のキム・チョルジュンと名乗る男性が「横田めぐみさんの遺骨」とされる骨を日本側に渡したが、日本政府は鑑定の結果「別人のDNAが検出された」として別人と断定。北朝鮮側はこれに反論し、遺骨の返還を求めている。 |
【横田めぐみさんに関する記事(電脳補完録内)2005年以降】 | |
・横田めぐみさん 「私は空き地に隠れていた人間に拉致された」 |
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1977 | 10月5日 | めぐみさん、13才の誕生日 |
11月15日 | 下校中の午後6時35分頃、自宅近くで拉致 「バドミントン部の練習の帰りに、家の近くの曲がり角で男の人に捕まえられた行かれた。すごく恐ろしかった」とめぐみさんが語る。「拉致したのは自分だ。自分が連れてきた」と辛光洙が語る(曽我証言) |
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1978 | 8月5日 | 17才の高校生、金英男さんが韓国西海岸の海水浴場から拉致 |
8月18日 | 平壌の招待所で曽我ひとみさんに初めて会った時「にっこりと笑って迎えた」(曽我証言) | |
12月 | 平壌の招待所に曽我ひとみさんと同居。辛光洙から朝鮮語や歴史、物理や数学などを習う(曽我証言) |
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1979 | 平壌の招待所で曽我ひとみさんと7ヶ月間同居(曽我証言) | |
1980 | 5月か6月 | 平壌の招待所で曽我ひとみさんと最終的に別れる(曽我証言) |
1981 | 田口八重子さんと84年まで同居(北朝鮮発表) 田口八重子さんは81年7月から83年3月まで、金賢姫と同居していた(金賢姫証言) |
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1984 | 9月13日 | 平壌市チュンリョンリの招待所1地区3号棟に田口八重子さん、女性工作員の3人で同居(蓮池薫証言) スクヒという女性に日本語を教えていた(地村富貴恵証言) |
1985 | 年末 | チュンリョンリ1地区の日本人拉致被害者は全員が2地区に移動(蓮池薫証言) |
田口八重子さん | |
北朝鮮の発表:死亡 |
拉致:昭和53(1978)年6月 |
昭和53(1978)年6月に東京高田馬場のベビーホテルに3歳と1歳の幼児を預けたまま拉致された。朝鮮語や政治の教育を受けた後、昭和56(1981)年7月から58(1983)年3月まで大韓航空機爆破事件の犯人金賢姫の日本人化教育係を勤める。北朝鮮では「李恩恵」と呼ばれた。
警察庁が拉致事件と認定 |
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* 1978年6月ごろ、仕事に向かうためベビーホテルに2人の子供を預けたまま行方不明になった。 |
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北朝鮮が呈示した個別情報(2002年9月) |
(注)なお、李恩恵事件につき、北朝鮮側は、調査の結果、李恩恵なる日本人女性はいない旨発言。
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第3回日朝実務者協議での北朝鮮側の説明(2004年11月) |
【北朝鮮側からの説明】 ▽入国経緯 身分盗用に利用する相手を物色していた工作員が「青島海岸まで行こう」と田口さんを誘引した上で、1978年6月29日、青島海岸から田口さんを連れてきて、海州から入境した。拉致の実行犯であるリ・チョルスは、92年夏死亡した。 ▽生活経緯 78年6月から7月までの間、地方の招待所で休息。78年7月から79年11月までの間、平壌市内の招待所で生活。79年12月から84年10月までの間、平壌市郊外および地方の招待所で日本語教育に従事、84年11月から86年7月までの間、麟山郡の招待所で家庭生活。特に、81年から84年までの間は、横田めぐみさんと一緒に生活していた。夫の原敕晁さんが平壌の病院に入院してからは、田口さんも平壌郊外の招待所に移り、原さんを見舞った。そこで他の日本人と一緒にいた可能性もあると思う。原さんと結婚後の84年11月から86年7月まで麟山の招待所で一緒に生活していた。 ▽結婚 84年10月19日に原さんと結婚。初めは、年の差が離れているためちゅうちょしていたが、何回か会ううちに結婚に同意。これは、調査委員会の人間が特殊機関内に入って、関係者から話を聞いた。 ▽死亡経緯 夫の死亡後、精神的な慰労のため元山に行って休息をとった後の帰宅途中、86年7月30日、馬息嶺で軍部隊の車と衝突して死亡。 ▽事故処理 軍が事故後被害者を引き上げ、元山周辺の郡病院へと搬送した。軍から連絡を受けた当該機関は、元山基地に指示を出し、ひつぎを移送する準備をさせた後、遺体の引き渡しを受けた上で葬儀を行い、夫の墓地がある麟山に合葬した。 ▽遺体 95年8月18日、豪雨により麟山郡上月里の貯水池ダムが決壊したため、流出した。遺品は死亡当時に焼却された。 ▽田口さんの朝鮮名 田口さんは北朝鮮に入国して以来、コ・ヘオクとの朝鮮名で通しており、他の朝鮮名はなかった。 【証人からの聴取等】 ▽695病院の元医師および麟山郡招待所の接待員から、当時の生活状況に関する情報の聴取を行った。 ▽馬息嶺交通事故につき、道路管理人から事故状況について聴取。 ▽物証 馬息嶺交通事故資料 |
救う会・家族会が疑問だとしている点 |
1) 上記の通り、「李恩恵は田口さんではない」という主張は我が国警察の捜査結果を否定する強弁ではないのか。
(2) 物証として提供された「マシク嶺交通事故資料」には手書きの説明文と略図しかなく、事故当時の現場や遺体写真などの物証が含まれていない。 (3) 拉致された時、海州から上陸したと説明されたが、地村富貴恵さんは「田口さんは南浦から上陸した」と証言している。 (4) 拉致した犯人も交通事故で死亡し、同じ車に乗っていた指導員と運転手も全員死んだとされ、具体的証言を聞く人物がいないとする報告は不自然ではないか。 (5) 2年前の説明では宮崎の海岸で工作員と出会ったことになっていたが、今回は「宮崎まで誘引された」と変更されているのは不自然ではないか。 (6) 同じく前回の説明では「トラックにぶつかった」とされていたが、今回は「軍部隊の車と衝突」と変更されているのも不自然ではないか。 (7) 拉致実行犯は92年夏死亡とあるが、客観的証拠がない。 ★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2004.11.25-2) |
田口八重子さん | ||||
第1回 金賢姫の教育係 第2回 ベビーホテル 第3回 加害者扱い 第4回 金賢姫へ手紙
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「母よ元気で」「金元死刑囚も犠牲者」田口さん長男会見
田口八重子さん27年前の笑顔 北朝鮮に拉致された田口八重子さん=当時(二二)=の二十七年前に撮影された写真がこのほど見つかり、長男、耕一郎さん(二七)の手に渡った。母親の記憶がない耕一郎さんは「幸せな家族だったと分かってよかった。早く母を日本に連れて帰り、笑顔を取り戻してあげたい」と話している。 耕一郎さんを引き取って育てた田口さんの兄、飯塚繁雄さん(六五)によると、子供と一緒の田口さんの写真が見つかったのは初めて。 保管していたのは、埼玉県川口市のアパートで田口さん一家と親しかった主婦、奈良好子さん(五九)。今年二月に初めて記者会見した耕一郎さんが「母の思い出を一片でも欲しい」と訴えるのをテレビで見て連絡した。 「若いお母さんだったけど、けなげに子育てをしていた。笑顔が印象的で料理上手でした」 撮影は昭和五十二年八月。自宅でくつろぐ田口さん母子三人と奈良さんの子供たちが写っている。その後、夫と別れた田口さんは東京都豊島区の飲食店で働き始め、五十三年六月に一歳だった耕一郎さんと二歳の姉を託児所に残して拉致された。 色あせた写真の中に初めて見た、母の笑顔。「失われた時間はもう取り戻せない。幸せだった家庭がなぜ突然なくなり、二十年以上も放っておかれたのか」。耕一郎さんは憤りを新たにするとともに、いつか飛行機のタラップを下りてくる母を迎える日が来るのを固く信じている。 (産経新聞2004/4/7) 田口八重子さん、マレーシア経由で拉致か 拉致被害者で、北朝鮮側が「死亡」としている田口八重子さん(当時22歳)が失跡した当日、貿易代表団の一員として来日していた北朝鮮の特殊機関の幹部が突然、予定を早め、マレーシアに出国していたことが、警察当局の調べで新たに分かった。 田口さんはだまされて、この幹部に国外に連れ出された疑いが濃厚で、警察当局は渡航経路の確認を急ぐ一方、今後の日朝交渉で、こうした疑いを提示し、真相解明を迫る方針だ。 1987年11月の大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚の教育係「李恩恵(リ・ウンヘ)」だったとされる田口さんは、東京・池袋の飲食店に勤めていた78年6月30日、2人の子どもをベビーホテルに預けたまま姿を消した。 北朝鮮当局は一昨年9月、日本政府の調査団に、「宮崎市の青島海岸から船で連れ出した」などと説明したが、その後の警察当局の捜査で、田口さんが宮崎に向かった形跡や、当時、九州南岸に不審船が接近していたとの情報は確認できず、この説明を裏付けることはできなかった。 このため警察当局は、当時の全国の空港や港の出入国記録を洗い直す必要があると判断。その過程で、田口さんが失跡した数日前から、北朝鮮の在マレーシア大使館の2等書記官が貿易代表団の一員として来日しており、この書記官が田口さんの失跡当日、当初の予定を切り上げ、成田空港からマレーシアの首都クアラルンプールに出国していたことが判明した。 また、田口さんが失跡の数日前、店の常連だった在日朝鮮人の男から、「いい仕事がある。3日で帰れる」と誘われていた、という新証言も得られた。 警察当局は、「李恩恵=田口さん」と断定した91年5月当時から、この常連客が、「宮本明」と名乗る在日朝鮮人の工作員と同一人物ではないか、とみていた。 さらに、米韓両当局からの情報で、在マレーシア大使館の2等書記官を身分として、極東地域の工作活動の責任者をしていた北朝鮮特殊機関の幹部が、「宮本」工作員とマレーシアで接触していたこともつかんでいた。警察幹部は、「その幹部が、田口さんが失跡したその日にマレーシアに戻ったという新事実が判明したことで、ようやく点と点が1本の線につながった」と指摘する。 警察当局では、「宮本」工作員にだまされた田口さんは、偽造パスポートを渡されたうえで、この特殊機関の幹部とともにマレーシアに渡り、その後、北朝鮮に連れ出された疑いがあるとみて、当時の航空便の記録や、北朝鮮に入ったルートの確認を進めている。 (読売新聞2004/5/21)
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特別企画 家族のかたち 雑誌「家の光」より 実の子として育てた日々 27年前、二人の子どもを残し、
「お宅の妹さんが何日も無断欠勤をしています。」 自分の子どもは自分ひとりで育てる。そんな意思の強い妹でした。だから、子どもを置いていくなんて考えられません。二、三日もすれば戻ってくるだろう、と最初は楽観的に捉えていました。それが一週間たっても帰ってこない。トラブルにでも巻き込まれたのではないか。嫌な感じを抱いたのを覚えています。 私は7人兄弟の長男として、戦中戦後の食糧のない時代を必死で生きてきました。娯楽はなく、何事も我慢我慢の時代。一方、八重子は末っ子で昭和30年生まれ。私とは十七も年が離れています。親父が病気がちでしたので、あんちゃんあんちゃんといつも慕ってくれていました。 離婚したときには心配で、「昼間の仕事をしなさい」と言ったのですが、当時、女性が子どもを預けて働ける職場は水商売しかありません。いろいろと悩んだ上での選択だったと思います。二週間に一度は様子を見に行きました。勤め始めて二ヶ月、暮らしも落ち着き始めたころの出来事でした。(繁雄さん) そのころ私たちはすでに三人の子どもがいました。八重子さんがいなくなったこともそうですが、残された八重子さんの子どもを何とかしなくちゃいけない。私たちの子どもの分も含めて、ご飯食べさせなきゃ。ミルク飲ませなきゃ。必死でした。(栄子さん)
家族の一員として
子どもたちにも事情を話しました。「耕一郎はこれからお前たちのきょうだいとして生活する。ほんとうの子でないことは耕一郎が大きくなるまでは絶対に口にしてはいけないよ」と。子どもたちは、「うん、わかった」と素直に答えました。近所の人も気づいていたようです。妻のおなかが大きくならないのに、突然子どもが増えたのですから。 成人したら、耕一郎にこの事実を打ち明けるつもりでしたが、それまでは絶対に知らせてはいけないと思いました。多感な年代に事実を知ることで、自暴自棄になり、自分を見失ってしまうことが怖かったのです。三人のきょうだいはよく黙っていてくれたと思います。子どもだったら冗談で、「お前なんかうちの子じゃねぇ」なんて言っていってしまいそうですが、それだけは言わなかった。やはり子どもなりにいってはいけないことというのがわかっていたのでしょう。耕一郎が立派な大人に成長してくれたのも家族のおかげだと思っています。(繁雄さん) 「あの子はかわいそうな子だからこうしてあげよう」なんてことはまったく考えませんでした。子どもが四人もて、家のローンも抱えて、そんなことを考える余裕がなかったのも事実です。その分、私たちが一生懸命働く姿、生きている姿を見せてきたつもりです。そのことが耕一郎を育てる上でよかったんじゃないかと思っています。(栄子さん)
最初はそんな馬鹿な話があるかと思いました。そりゃぁ、八重子に関しては十年近くなにも情報がなかったのですから、信じろというほうに無理があります。それからは毎週のように警察からの事情聴取を受けました。そして、最終的には金賢姫が八重子の写真を指して「李恩恵」だと証言したので、事実を認めざるを得ませんでした。八重子は北朝鮮に拉致されていたのです。 さいわい耕一郎には知られずにすみましたが、マスコミの取材攻勢はひどいものでした。会社や親族の家まで押しかけてきて、事実と違うことや興味本位なことを書かれ、ひどくショックを受けました。八重子は無理やり連れて行かれて、なにも悪いことはしていない。わたしたち家族は被害者なのに、どうして世間から傷つけられなければいけないのか。腹立たしい日々が続きました。(繁雄さん)
養子って
「これってどういうことなの?」 耕一郎は最初、「へぇ、そなんだ」とそっけない反応でしたが、内心は穏やかではなかったようです。あまりに重大な話だったのでショックを受ける余裕がないという感じでした。時間をかけていろんな話をきくことで、これは大変なことなんだということをすこしずつ実感してきたのではないでしょうか。話の最後に私は言いました。「でも、おまえの父親と母親はこれからもわたしらだからね」と。(繁雄さん)
「あきらめずに待っていてくれ」 外務省から、携帯電話に連絡があったのは、ちょうど会社で仕事をしているときでした。それで「八重子は死亡した」という報告を受けたのです。 そのころ、耕一郎は出張でロンドンにいました。テレビの衛星放送で報道を見てすぐさま家に電話をかけてきました。 しかし、電話一本ではどうも納得がいかない。翌日、外務省まで出向き、一人で説明を聞きました。内容は、死亡したという事実だけで、証拠はなにもなく、説明もまったくありません。情報はまったくのでたらめとしか思えませんでした。 そのとき、わたしは決心しました。これまで家族の生活を守るために沈黙をしてきたけれど、このままでは何も進まない。家族会(「北朝鮮による拉致」被害者家族連絡会)に入り、世論に訴えていこうと。2004年2月からは耕一郎も家族会の一員として活動を始めました。拉致問題の解決の糸口が見えないなかで、「親父も疲れているだろう。少しでも補えるならおれも出るよ」と言ってくれたのです。出て行くには勇気がいったと思います。よく決意をしてくれました。
親子が抱き合う姿を 私たちは、必死で仕事をして子どもを育ててきました。「そんな家庭にどうして?」という思いは正直に言えばあります。また、日長実務者協議で、なぜ、八重子の情報が入ってこないのか、という苛立ちもあります。でも、一番つらいのは拉致された八重子本人です。北朝鮮で一人、「もうだれも迎えに来ないだろう」と、あきらめているんじゃないかと。「あんちゃんたちはぜったいにあきらめないぞ。取り返そうとがんばっているから待っていてくれ」、そのことを八重子に伝えることができたら・・・・。拉致被害者の家族には年老いている人がたくさんいます。私たちだって、もうそれほど若くはありません。でも、八重子が帰ってくる日までは倒れるわけにはいかないんです。(繁雄さん) 「ああ、今日も出張なんだ・・・」家族会の活動を始めてから夫が家を留守にすることが多くなりました。活動は夫が先頭に立ってくれていますが、気持ちはわたしも同じです。耕一郎がお母さんと抱き合う姿を一日も早く見たい。いま、心から願うのはそのことです。 |