☆…歴史の深奥で為される秘儀…☆
EmperorsDeepHist.
2010/12~2011/12

天皇家の蓄財 by『心に青雲』

●『真贋 大江山霊媒衆』 栗原茂
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 王文泰こと出口清吉のその後は、出口和明が『出口王仁三郎入蒙秘話』に述べるが、会員制情報誌『みち』に平成二十年九月一日号から連載する栗原茂の「大江山系霊媒衆」が、背景を詳細に解説している。甚だ難解な内容だが、これほどの超深度にまで達しないと、歴史の闇は見透かせない。超深度と呼ぶのは、王仁二郎曾孫の出口和明でさえ知らない事実を述べるからであるが、表現が晦渋なのは、真相の全面公開を憚って当座は黙示の形にしたものと思う。・・・

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 ↑の栗原氏の連載が 『真贋大江山系霊媒衆』 として刊行されたので、

 以下、<目次>から<序章>までを紹介していく。

 発行:2009年9月1日 ★文明地政学協会(Tel&fax 03-5951-2145)
    

<目 次>

序章   大江山系シャーマニズムとは?

第二章  日野強の伊利(伊犂・いり)紀行

第三章  日野強と支那革命  

第四章  日野強の宗教観  

第五章  日野強の人種論

第六章  人種・語族と霊媒衆

第七章  徳川鎖国体制と大江山  

第八章  大江山系と非大江山系  

第九章   東京行宮後の大江山系霊媒衆

第一〇章  堀川辰吉郎の神格  

第一一章  堀川辰吉郎の紫禁城入り

第十二章  堀川辰吉郎の求心力  

第十三章  皇統奉公衆とは?  

第一四章  満洲建国の大義は死なず

第一五章  克己自立の奉公へ向けて  

第一六章  透徹史観に透かす現況と未来  

終  章  奉公を貫く舎人たち  

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 ★序章   大江山系シャーマニズムとは?

 ●出口清吉について

 出口清吉(出口なおの二男)は明治五年(一八七二)に兵庫県綾部で生まれた。同二五年(一八九二)に東京の近衛師団へ入隊する。同二七年(一八九四)日清戦争勃発のとき、台湾へ出征しており、翌二八年八月一八日に戦死というのが軍籍上の公式記録である。

 ところが清吉と一緒に綾部から出征した戦友・足立の話では、帰還の際も清吉と一緒だったが、台湾から日本へ向かう船中て病死したため、その遺体は全身包帯巻きの姿で海中に葬られたとされている。

 また、清吉の所属した部隊は戦死者ゼロというのが軍や役場における公開情報であり、綾部町役場に残る抄本では清吉の死亡日を明治ニ八年七月七日と記している。ちなみに、出口家関係の霊媒による説では、清吉は死なずに神の使いとなって難局打開のため働く姿を詳しく述べており、特に出口なお三女(福島久)に降りた清吉霊がよく知られている。

 大本教のお筆先においては、清吉を「日の出の神」と呼んでいるが、その名前を冠した往時の「京都日出新聞」は北清事変(一九〇〇)の殊勲者として王文泰の名を報じており、同新聞の明治三八年(一九〇五)八月十三日付二面記事では、「軍事探偵王文泰」との見出しで、年齢三〇歳前後の人物が十数年来にわたって支那人に扮し内偵活動を行なうと紹介している。

 つまり、「王文泰」なる支那人変名を使って大陸で活躍する清吉の消息を伝えているのである。さらに、その後の清吉を詳しく描いているのは、出口王仁三郎の入蒙経緯を記した入蒙秘話である。そこに多くの軍人が登場するので、当時の軍と大本教の関係につき、少し触れておく必要がある。

 ●大本教入信の主要軍人

 軍関係の重要人物と大本教との関係は、大正二年(一九一三)五月に福中鉄三郎(予備役海軍機関中佐)が大本に入信したのが嚆矢である。二年後の大正四年(一九一五)には福中を介して飯森正芳(同)も入信した。飯森は戦艦「香取」乗組員二五〇人を甲板上に集めて大本教の講話を行なうほどの熱心な信者となったが、一方で飯森は「赤化中佐」とも俗に呼ばれており、トルストイ主義を自ら奉じて無政府主義者や社会主義者の札付きとも平然と親交を結んだ豪放磊落な性格で知られていた。

 大正五年(一九一六)十二月には、横須賀海軍機関学校の英語教官だった浅野和三郎とその実兄である浅野正恭(海軍少将)も大本教に加わってくる。やがて浅野和三郎は王仁三郎をも凌ぐ一大勢力を大本教内に有し、実質的に大本教ナンバーワンと目される時期もあり、日本海海戦の名参謀として有名な秋山真之の入信にも荷担している。

 秋山真之の入信がきっかけとなって桑島省三大佐(のち中将)や山本英輔大佐(のち大将)ほか、四元賢吉大佐や矢野祐太朗中佐(のち大佐)などの海軍軍人が陸続と大本教へと入信するようになる。

 こうした影響力は陸軍にも及んで、大将七年(一九一八)入信の小牧斧助大佐を契機として石井弥四郎(予備役大佐)や秦真次中佐(のち中将)などの入信が相次ぐことになる。

 さて王仁三郎の入蒙経綸であるが、王仁三郎に強い影響力を及ぼしたのは日野強(ひの・こわし)陸軍大佐(一八六五~一九二〇)が筆頭とされている。日野は日露教争に先立って軍令により満洲と朝鮮を踏査した経験があるが、日露戦争後の明治三九年(一九〇六)七月、陸軍参謀本部から天山山脈に囲まれたイリ地方を中心に支那新疆省を視察せよとの密命を帯びて出発した。日野の踏査紀行は後に『伊梨紀行』(芙蓉書房刊*1973年、復刻版)という著書として刊行されている。それは新疆地方を中心にカラコルムを経てヒマラヤを越えインドまで達する壮大な探検物語である。

 出口王仁三郎入蒙の相談相手として陸軍は、退役後に支那青海で缶詰業を営んでいた日野強を呼びもどし綾部に送りこんだが、海軍は退役大佐で大本信者の矢野祐太朗に大陸現地の奉天で王仁三郎の受容工作を進めさせていた。

 矢野は奉天において武器斡旋を業とする三也商会を営みつつ、大陸浪人の岡崎鉄首らと組み、満蒙独立を志していた廬占魁と渡りをつけ張作霖ルートの取り込みに成功するが、その裏には堀川辰吉郎の手配があったことはほとんど知られていない。岡崎鉄首は玄洋社の末永節(すえなが・みさお)が大正十一年(一九二二)に創設した肇国会のメンバーだった。

 肇国会は満蒙およびバイカル湖以東シベリア地域を「大高麗国」と名付け中立ワンワールド構想の下に大陸工作を行なっており、その活動は犬養毅や内田良平らの支持を得ていた。

 肇国会による大高麗国ロードマップは王仁三郎入蒙経綸の版図と重なり、その思想的背景をなしたと見ることができる。

 大正十三年(一九一四)二月一五日、王仁三郎は朝鮮経由で奉天に到着すると北村隆光と萩原敏明に迎えられて、その日の内に岡崎らが手配した廬占魁との第一回会談に臨んでいる。続いて岡崎鉄首、佐々木弥市、大石良、矢野が加わって第二回会談が行なわれた。

 村上重良『出口王仁三郎』(新人物往来社、一九七五)によれば、大石は大正九年五月新設された奉天特務機関「貴志機関」(初代機関長・貴志彌次郎少将、貴志はのち張作霖顧問)の有力なメンバーであり、奉天軍第三旅長の軍事顧問兼教官に任じた人物である。宗教学者の村上はまた、「奉天軍閥が盧を迎えた背景には、かねてから盧の利用を考えていた日本陸軍の貴志機関の工作があり、王仁三郎と盧の提携も貴志機関が終始、その推進にあたったことはいうまでもない」とも指摘している。

 ●奉天特務と出口王仁三郎

 いま貴志彌次郎少将(のち中将)については省くが、村上は「王仁三郎と廬の提携は貴志機関工作構想に従い、町野武馬大佐や本庄繁大佐(のち大将)らも上原勇作の密命で動いた」とまでは読むが、惜しむらくは堀川まで達していない。

 王仁三郎は入蒙に際して多くの変名を使っている。日本名「源日出雄」のほか、朝鮮名の「王文泰」や支那名「王文祥」などが知られる。王仁三郎の入蒙経綸に際しては推進派と弾圧派の対立があり、推進派の矢野や貴志などに対して、弾圧派は後に大佐となる寺田憲兵中尉ら七人を奉天に差し向けている。弾圧派は徹底的に王仁三郎を尾行するが、その動きは推進派も先刻承知しており、王仁三郎を入蒙の方向とはまったく異なる町(赤峰、せきほう)に案内した。

 この赤峰の町で王仁三郎と出会うのが王清泰と名乗る清吉であった。清吉は蒙古人を装って小興安嶺山中に住む道士で押し通すが、両者は尋常でない互いの関係を直ちに認識した。弾圧派は王清泰の正体を徹底調査しており、「年齢五〇前後、流暢な日本語は山陰訛り、蒙古人の間で生き神と崇められ徳望が高い」などの情報を総合して、清吉は日本人だと突き止め、関東軍に協力するよう求めた。

 これに先立って推進派に与した矢野は、大正七年(一九一八)二月二七日から三月三日まで、台湾沖膨湖諸島を発ち支那を経て佐世保に到着する日程を刻んでいる。この道筋は出口清吉の足取りを踏むものであり、その目的は京都日出新聞に報じられた王文泰の情報と写真を入手することにあった。

 他方、同じ時期の王仁三郎の記録は「三月三日から八日まで、京阪地方に出張」とあるが、子細アリバイは不明であり、佐世保で矢野に会って王文泰(清吉)の情報と写真を渡されたことは容易に泰せられる。

 ところで王清泰と名乗る清吉を取り込んだ弾圧派は、ミイラ取りがミイラになる話と通じて、昭和一四年(一九三九)まで親密に清吉と接触していた長谷川久雄が記録を残したことから、王仁三郎の入蒙経綸が清吉に引き継がれた裏付けを立てることになる。その長谷川久雄とは王清泰の尾行を行っていた弾圧派の一人である。

 ●出口清吉=王文泰=王清泰

 赤峰の宿で王清泰と神意を交わした王仁三郎は蒙古で女馬賊と出会うことになる。女馬賊は三千人に及ぶ部下を擁する頭領で籮龍(ら・りゅう)と名乗るが、流暢な日本語を話し、王仁三郎に忠誠を尽くすと約する。その籮龍(ら・りゅう)の父は誰あろう台湾から入蒙した王文泰であり、日本名を「デグチ」とも言うという。そのほかに「籮(ら)清吉」とも称し馬賊として頭角を現わした人物とのこと。因みに、母は蒙古人であると籮龍は王仁三郎に話している。

 つまり、出口なお二男の清吉は並みいる「クサ」(草・諜報員)と異なり、少年期に表芸から裏芸まで徹底して仕込まれていく資質を持ち合わせることから、杉山茂丸ラインを経由して堀川辰吉郎に達していたのだ。出口王仁三郎は出口清吉の身代りとなって軍閥の腐食と心中するが、清吉ラインは大東亜戦争後の今も健在で平成大相撲を支えていることは知る人ぞ知る。

 さて史家としては、出口の氏姓鑑識が必須の心得であり、大本教を論ずるには、何ゆえに霊媒衆を出口姓としたのか、また王仁三郎(上田鬼三郎)を養子とした背景にどんな企みが潜んでいたのかなどの問題とともに、最大の課題は大江山系シャーマニズムを解く能力が問われよう。

 維新政府が行なった最大の弊政は、天皇一世一元制(明治元年九月八日)の制定であり、これは明治五年(一八七二)十一月五日のグレゴリオ暦採用にも通じており、皇紀暦を踏みにじる最大の汚点として政策全般に及ぶ迷走を呼び起こしていく。

 その迷走の例を挙げれば、東京遷宮(一八六九)、仏式陸軍と英式海軍の兵制布告(一八七〇)、寺社領没収(一八七一)、壬申戸籍実施(一八七二)などが数えられよう。

 特に神仏分離令(一八六八)により平田派国学神官を中心にして廃仏毀釈の運動が高まって多くの仏教系事物が破壊・焼却されたことは、大化改新の前夜に生じた狂気の様相を彷彿させる。これらは西洋の天啓思想に汚染されての所業ゆえ混迷ますます深まり、一方で平民苗字許可制(一八七〇)を施せば、他方で士族と平民の身分制存続(一八七一)という矛盾を重ねていく。その混迷が大江山系シャーマニズムを覚醒させる要因に成ったのである。

   続く。




●『真贋 大江山霊媒衆』 栗原茂■

★序章 大江山系シャーマニズムとは? <続>

 ●統一場を啓く共時性

 日本を和と仮定すれば、東西混淆の洋は南北を巻き込む遠心力のもとに、求心力が働く核心の和に集中するのが回転トルクのベクトルである。短絡的な文明史観に陥る人の通弊として、和を保つ努力が稀薄になると、和洋折衷の千切り取り思想に奔るという傾向が生じてくる。

 富国強兵を誘引する兵制改革は日清戦争の顛末情報を正確に伝えられず、抜き差しならない日露開戦も止むなき成り行きに流されたが、歴代の神格に支えられた天皇の透徹史観は常に備えを怠らない。フランス仕込みの陸軍とイギリス仕込みの海軍が橇を合わせる何ぞは夢物語なのである。光格天皇の御代を振り返り通暁すれば、すでに答は出されており、アメリカ独立戦争やナポレオンの執政などの事例を引いて多くを語る必要はあるまい。

 光格天皇は神変大菩薩の諡を贈号して役小角シャーマニズムを蘇らせた。さらに約四〇〇年にわたって途絶えた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時復活祭なども挙行した。東京遷宮の強行さえ超克する神格天皇ゆえ、祐宮兼仁(ともひと)親王(光格天皇)と同じ称号の祐宮睦仁親王(明治天皇)が新開を啓く奥義も、相応の未来透徹から生じている。

 すなわち、祐は「う」を「示す」天子の真事を顕わす表意であり、連続性を断つ局面のとき、天子が超克の型示しで民心一つに纏め上げる振る舞いから、霊言「あおうえい」五十音図をフル活用する意を潜ませるのだ。

 統一場を啓く共時性は開かれた空間に顕われて、素元の因子が恒久リサイクル・システムにより、分子結合構造を成すが、分子の結合法すら弁えない閉じられた空間では、霊言五十音図の原義を勘違いして外来文字と結ぼうとする本末転倒さえも起こる。例えば、漢字「安」から霊言「あ」が生まれたように勘違いして、分子構造「安」の還元論から素元「あ」を突き止めようとするのだ。この還元論が似非教育の病巣であり、実証現場を知らない文学の仮説が史観の原義を狂わせている。

 ●大江山系シャーマニズムの留意点

 光格天皇による神変大菩薩号贈号で蘇るシャーマニズムは吉野(金峰山)に根ざしている。御所の消失で聖護院三年間の仮御所生活をした光格天皇の神意によるが、東京遷宮の暴挙を犯した人意は大江山系シャーマニズムを編むと兵制に基づく擬似天皇制を仕立て上げた。これが役小角らの呪術的伝承とともに、似非の神を奉じるユダヤ病ウイルスの増殖と重ね合わさり、日清開戦や日露休戦を通じて広く大陸各地に拡散していく。似非教育下で巣立つ純心の傷には慈悲の念を禁じ得ないが、展開図法による擬似立体史観では総合設計が成り立たず、結局は部分接合が仮説の重ね着となり、本義の立体史観である共時性を伴う統一場は完成に至らない。

 筆者は落合(井口)莞爾の純心を深く愛して、その史観設計に取り組む努力に多大の敬意を表するも共振は得られない。なぜ落合を引き合いに出すかというと、善くも悪くも、落合ほどの大仕事を成し得た生き証人はおらず、ニギリ・ホテン・トバシの渦中で純心を失わず、自ら稼ぎ出す多額資金に溺れず、歴史の焼き直しに献身的努力を怠らないからである。

 惜しむらくは最高学府に巣くう性癖を拭いきれず、思考回路が構造不全のまま情知が先んじるため、実証現場の意を整えきれず、共時性を伴う統一場を形成できない。

 しかし筆者は井口に期待している。人の本能的属性は純心を失わなければ、必ず瞬時の閃きによって覚醒したうえ、積み上げた素養が役立つ時が必ず訪れよう。それが純心の本義だからである。落合が誤る還元論を改めたとき、筆者も井口と場の共時性を保ちながら意の共振状態を形成するに違いないと期待している。

 本稿では落合説を根幹から揺るがす因子の不全を時に指摘するかもしれないが、現行下の状況では落合説の誤謬を質す次元ではない。
 
 さて、大江山系シャーマニズムの留意点であるが、出口家また大本教幹部の編む史料も所詮はオカルトロマンであり、落合説も含め密教を解くような文法では、迷路を彷徨う仮説を重ねるしかあるまい。

 ●大江山系シャーマニズムとは

 大江山系霊媒衆がなにゆえに近代に出現したのか。その要諦を禊祓(みそぎ・はらい)すれば、役行者は時空の伝道師であって、その託宣は上古の代に使い古された言質を繰り返して、場の非時性を訴えるだけの求道にすぎないことが分かる。

 つまり、新開を啓くものなどは何もなく古語を新語に置き換えて、単なる時代的徒花にも均しい亜流の増殖を拡散させるだけの存在にすぎないと言わざるをえない。

 落合が解読した『吉薗周蔵手記』は労作であり、生ける屍が政官業言に跳梁していく近現代史を描いており、大江山系シャーマニズムを解く仮説では出色の著作と言えよう。

 むろん、詮ない個人情報には限界があり歴史の真事に通じないが、大江山系シャーマニズムの問題提起としては、他に類例のない設計パーツを揃えていると評価することができる。

 大江山系シャーマニズムの本質は、本筋を外した亜流であるところにあり、政策に綾なす徒花として咲きほころぶ現象にすぎない。

 光格天皇の神変大菩薩は純血皇統に立脚する聖地(結界)に根ざすのだが、亜流の大江山系霊媒衆は混血の統御に立脚するため、更地(俗界)を紡いで繕う版図(ロードマップ)に重点を注ぐことになる。

 人類文明最古の皇紀暦を刻む日本史が何ゆえもっとも遅れて記紀を編んだのか。それは人類の知を剌激して已まない問題であるが、捉え方を誤ると、記紀も単なる物語でしかなくなる。

つまり、大江山系シャーマニズムのような亜流は須佐之男命(すさのおのみこと)を尊崇するが、スサノオは総じて神話の主役であり、ワンワールドを企んで勇躍するコスモボリタンたちが奉ずる似非の神に共通する。

 記紀がスサノオを主神とするのではなく、そのスサノオを窄(たしな)める天照大神を中心に定めるのは深い理由あってのことであり、最古を刻む皇紀暦が記紀編纂を遅らせた理由でもある。

 考古渉猟は情知を刺激して已まないが、記紀の解読すらいまだ暗中模索の状態であり、過去と未来とを透徹する基礎校本に成り得ていない。ここに、大江山系シャーマニズムを解く意義があるのであって、その意義とは現行下の妖怪変化に対抗して自らを強化し、欺し欺される生活から脱却する素養を磨く土台を整えることにある。

 例えば、大江山出自の大本教教団が衰退すると、現行下の徒花に相当する創価学会のような新興勢力が出現して、際限ない宗教ビジネスを目指す妖怪が霊媒衆を食い物にしていく。つまり、大江山系シャーマニズムを題材として過去と未来を透かすと、地名の大江山は単なる象徴にすぎないが、その歴史はやがて室町幕府を滅ぼすことになる鉄砲伝来に通じて世界史全般に及んでいくのである。

 ●八紘為宇の誤訳

 日本書紀の(*巻第三)神武即位前己未年三月に「兼六合以開都、掩八紘而為宇」とあり、この紀の記述に基づいて<八紘一宇>なる語が生まれ、これを大日本帝国は海外進出の口実として、軍国主義を高めるスローガンに掲げたという通釈一般説がある。

 また「宇」は家をイメージしており、「八紘」つまり地の果てまでを一つの家のように統一支配する野望を秘めた語であるとか、あるいは元来は日本国内を一つに纏める必要があって生まれた標語だったとか、「八紘一宇」という語の解釈は様々あり、国際社会でも広く物議を醸す言葉となっている。

 しかし、日本書紀の記述はあくまで「八紘為宇」であり、「為宇」と「一宇」とではたった一字の違いながら、意味するところが微妙に、そして深く違ってくる。

 大江山系シャーマニズムは近現代を司るロードマップに荷担し、その影響力は国際社会にも通じて、生ける屍の増殖拡散を促している。近代オリンピックと称する五輪大会は、金・銀・銅のメダルを競い争う運動会で人の本能的属性を露わにするが、学芸を競い争うノーベル・ショーも金・銀・銅の物性を論じる分野に力を注いでいる。

 記紀は三種の神器として鏡・玉・剣の機能性を論じつつ未来透徹の禊祓を説くが、似非の神を奉じる文明史観は誤訳を恥じずに、勝手な仮説を講じて共時性に伴う場の歴史を破壊していく。大義名分の演出を問えばキリないが、その核心は神の正体を掩蔽するものであり、神々に肖(あやか)ろうとする人の本能的属性が為せる業に支配される。

 脳内を狂わせる周波数を使うテレビ機器が出揃うころ、仏文学一九二〇年代末の流派としてポピュリズムと嘯く「立体的平面思考」が普及していく。例えば球は立体であるが、球を平面化した円に準(なぞら)え中心を描く設計があり、楕円の場合は中心点二つだから、集束も一つではない。それと同じように、真理は複数の場合もありうるとして、物質リサイクル・システム恒久化原理を否定する愚昧も出てくる。

 「八紘一宇」というスローガンも同様の思考不全から生じており、それらは大江山系シャーマニズムの影響であり、未来透徹が求められる現在において、記紀解読の誤謬を正すのは急務なのである。

 ●天気予報を嘲笑う気象攻勢

 現行下の社会を透かそうとすれば、共時性に伴う場の歴史を整える必要がある。人の違いが五十歩百歩とは、国連の井戸端会議でも立証されており、環境に伴う族種の異質性を訴えて部分を論じても詮ない話にしかならない。

 もともと生命は安定しようとする要求をもち、不飽和の状況下では要求度も低いが、飽和状態に陥ると要求度が高まり、様々な手段を講じて淘汰も辞さない現象を歴史に刻むのである。

 朝令暮改の天気予報を嘲笑うかのように、近年の気象は文明の如何に構わず、その脆弱性を露わに暴き出している。土石流に巻き込まれ事物損壊する様は言うまでもないが、気象は元気・病気など含めて気を象るものであり、気は圧を受けて変わり、不飽和が飽和に転じるメカニズムとも通ずる。文明は神の正体を暴き出すため苦心惨憺しており、天体を地球から観測する術を磨くと、宇宙船を放ち地球を観測する段階にまで達したが、情報は未だ神の正体を見極めていない。

 前項で「神の正体を掩蔽する」と馴染みの薄い語を用いたが、これは地球から天体を観測するとき使う語であり、掩蔽(occultation)とは通過(transit)や食(eclipse)に比べて、近い天体が大きく見えて遠くの天体を完全に覆い隠すとき使われる。

 因みに、通過は日面通過の略であり、天体による見かけの大きさが、遠くの天体より小さく見えるときに使うが、例えば、水星や金星など惑星が太陽面を通過していく様を指している。また食とは特定の天体が別の天体にできる影に入って隠れる様をいう。

 だが、この「食」なる用語が情報化されると、まさに神話スサノオ文明を象徴する解釈論となって、大同小異を伴いつつ大江山系シャーマニズムとも通ずることになる。つまり、朔望時に目視可能な現象で月食また日食という語は広く使われるが、月食は兎も角として、日食などありうるはずがない。月は太陽と地球の間を移動して、陽光を遮り地球一部に自らの影を及ぼし、太陽を食したような錯覚を生じさせるが、錯覚するのは人の都合で、月には何の責任もない。実証現場ではすでに日食を掩蔽と正している。

 ●神話スサノオ伝説の文明概略

 古代四大陸文明を基準とする仮説を究めていくと、文明の一般論は総じて神話スサノオ伝説に集束されて、記紀編纂が何ゆえに後発であるかの理由も定まり、陽光アマテラス祭祀の意義も、そして月光ツキヨミ輔弼の義も明らかになり、畢竟してスサノオ文明が電光(雷光)を放つ理由も解けて、未来が透けてくる。

 気象攻勢による土石流が暴き出した情報量は膨大であり、それは気象操作基地(アラスカ州ガコナ)の隠匿情報まで普く知らしめるに至った。記紀を参照しつつスサノオの伝承を引き継ぐ文明を実証的に検証してみると、通説の大陸文明すなわち大河・車輪・金属を利用する点で共通する歴史に転機が訪れるのは、非時性を同じくしながら場の歴史で大陸文明に優るとも劣らず、完全に異なるマヤ文明を掠奪してからである。

 以後、侵略文明は異質文明に関する情報の隠匿を徹底するため、マヤ文明本拠地・ユカタン半島の破壊を敢行すると同時に移転先を定め、「メシカ」と自称したアステカを再現して擬似文明体制を仕立て上げた。

 いま、カテリーナやグスタフなどと名付けられるハリケーンによって天誅が降されるのは、侵略文明に対する戒めであり、いかなる時代にあっても常に難儀を祓うのは神である。こうした現実を含め、「神とは何ぞや」という問が解けなければ、未来を透徹するなど不可能であり、霊媒衆の筆先に降る位相も単なる幻想で消えるだろう。

 これら実証考古の事物を透かすのが記紀であり、それは不飽和を保つ神世に始まり、飽和状態に陥る人世を救う禊祓の原義を活かし、神武天皇即位を皇紀元年としている。

 而して、以下の年代表記には皇紀暦を主に用いて、便宜的に西暦を括弧内に記すことにする。その理由は共時性に伴う場の歴史を基準にして記述を進めたいからであり、実証考古から導く教本に記紀は必須であり、世界最古の暦に基づかなければ、歴史が千切れてしまうからである。

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   ★ 序章   <完>。






●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(43)-1
  史的知見の上位集合体「薩摩ワンワールド」の具体像   ◆落合莞爾 

 ★孝明天皇-堀川氏-玄洋社 京都に秘匿された皇統勢力

 これから述べるのは、日本近代史の実相である。明治維新を企画・推進した極少数の人士が、治世の最重要事として威重に隠蔽したため、後代の政治家は素より、専門史家すら全く知ることなしに、今日まで見過してきた歴史の秘事である。因って、教科書史学の説く所とは根本的に異なるが、十数年来、日本近現代史の裏面を探求してきた私(落合)が、世に隠れた事実に導かれて此処に至ったものである。

 史実の探求と偽史の訂正を積み重ねて辿りついた論理的帰結ではあるが、それだけでは何処まで行っても一種想像の産物に過ぎない。それを敢えて本稿で述べたのは、実は「其の筋」から裏付けを得ていたからであるが、記述が断片的ならざるを得なかったのは、日本近代史の真相の根源に横たわる「皇室の二元制」に、私(落合)としては直接触れたくなかったからである。俗に謂う【情報源の秘匿】である。

 先人が史実を敢えて隠蔽し、時には偽史さえ行ったのは、素より治世上の理由で、それを公開するのは流石に躊躇された。だが通説を黙過すれば真実は歪んだままで、世に虚偽を伝える偽史に加担してしまうから、断片的にせよ語らざるを得なかったのだが、今般「その筋」から示唆があった。「今や公開の時に当たれり」と謂うものである。

 以下、二〇世紀世界史の一大要因で、今から世界史的意義が顕れると考えられる満洲問題から語り出すこととしたい。

 日露戦争の結果、日本の国力を目の当たりにした愛新覚羅氏は、満洲族の将来を賭けて日本に接近を図った。漢族自立が眼前に迫る中を、今後の満洲政策を諮るために西太后は、重臣・袁世凱を代理人として折衝に当たらせたが、明治皇室も政体桂太郎内閣も敢えて之に応対せず、愛新覚羅氏との折衝に当たったのは、孝明帝の血統を継ぐ堀川辰吉郎を奉じる京都皇統勢力であった。明治元年、維新政府は徳川氏の江戸城を東京城と改称し、新たな住居として新帝明治天皇が住すこととなったが、先帝孝明天皇の血を継ぐ一部皇統は秘かに京都に残り、公卿・社寺・公武合体派など幕末以来の諸勢力の輔翼を受け、東京皇室と維新政体が直接関わることが難しい特殊な国事に当たることとされたからである。

 京都に残った皇統の中核は、俗姓堀川を称する辰吉郎で、後見人に杉山茂丸(一八六四~一九三五)が選ばれて以来、杉山の拠る玄洋社が辰吉郎支援勢力として台頭した。その背景は、玄洋社の母胎・黒田藩が幕末に薩摩島津氏から藩主を迎えて血統を変じ、島津氏の別派と化していたからである。茂丸は龍造寺の男系杉山姓を称したが、実は島津重豪の九男で黒田藩主となった黒田長溥(一八一一~一八八七)の実子で、島津重豪の実孫でもあるから、島津斉彬・久光兄弟の父・斉興とは従兄弟の関係にあった。長溥が実子茂丸を龍造寺系杉山家に入れ、藤堂家から長知を迎えて黒田家を継がせた深謀遠慮は、無論教科書歴史の所説とは全く異なるが、これを理解せざれば日本近代史の真相を得られない。

 維新後、在野志士を志した黒田藩士が結成した政治結社・玄洋社は、社長に頭山満・平岡浩太郎を仰いだが、隠れた社主は茂丸であった。辰吉郎は杉山茂丸を傅役として福岡で育てられた後、上京して学習院に通う。皇族・華族の子弟教育を専らとして、平民の入学を初等科に限った当時の学習院に、辰吉郎が入学したことは、その貴種たる証である。長じた辰吉郎が、わが国の皇室外交と国際金融政策を秘かに担う次第こそ明治史の秘中の秘
で、これを知る者は今や杉山家の周辺にさえほとんどいないが、その観点から史書を渉猟すると、痕跡は随所に散見される。一例は、明治三十二年日本に亡命してきた清国人革命家・孫文を支援するため、辰吉郎が孫文の秘書となり行動を共にした事である。孫文が、常に身辺に伴う辰吉郎の正体を日本皇子と明かすことで、清人間における信用を高め得たのは、素より玄洋社の計らいであった。

 要するに京都皇統は、清朝倒壊後の満洲の宗主権保全を図る愛新覚羅氏(西太后没後、その中心は光緒帝の実弟で宣統帝溥儀の実父・醇親王載澧)と、満洲族支配を倒して漢族独立を図る革命家・孫文の双方を支援したのであるが、両者の目的は同じく満漢分離の実現にあり、両立は本来可能であった。

 漢族の自立革命によって成立した中華民国は、孫文の掲げた民族自立主義を実際に貫徹しなかった。中華民国が漢族の純粋民族国家でなく、漢族主体の多民族国家(中華思想に拠る合衆国)になったのは、当時の国際政治の現実がもたらしたもので、あくまでも結果である。

 
 ★愛新覚羅氏との密約で紫禁城に住んだ辰吉郎 
 
 ともかく愛新鋭羅氏と京都皇統の密約は具体化し、杉山茂丸らの苦心の結果、辰吉郎は明治四十三(一九一〇)年紫禁城に入り、内廷の小院に住んだ。その間、辰吉郎が喫緊の要地たる満洲をしばしば探訪したのは当然で、情報誌『月刊みち』紙上に、安西正鷹が「辰吉郎は満洲の覇者張作霖と泥懇になり、その長子・学良と義兄弟の盟を結んだ」と述べているのを、否認すべくもない。

 辰吉郎はまた、国民党ナンバー・ツーとして終始蒋介石を支えた張群の長子に愛娘の一人を嫁がせたという(中矢伸一 『日本を動かした大霊脈』)が、孫文の死去後も国民党との関係が途絶えなかった一証であろう。また、他の愛娘は富士製鉄(現社名・新日鉄)の創業者で日本財界の重鎮となった永野重雄の子息・辰雄の室に迎えられた。前首相・鳩山由紀夫の父鳩山誠一郎(大蔵事務次官・外相)が辰吉郎に親炙した事も、辰吉郎の出自を黙示するであろう。

 それもさることながら特筆すべきは、辰吉郎が世界各国で、ことに王室内部に、その子供を残した秘事であろう。欧州各王室は婚姻政策に拠って緊密に結びついているが、国體を慮って王室連合加入を躊躇う東京皇室に替わり、辰吉郎が裏面で実践したわけで、これぞ皇室外交の真髄と謂うべきである。

 明治維新は、西南雄藩の下級浪士を中心とする志士たちが、日本社会の近代化国際化を目指し、政体の変改を希求して推進したものである。薩長土肥の諸藩において維新志士たちの拠ったイデオロギーは「楠公精神」で、楠木正成が後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を倒した「建武中興」に政体変改の模範を求めて、その再現を図ったが、彼らの目的を政体変改だけに限るのは表層的理解である。楠木正成の思想は、南朝皇統を正統とする名分論にあったから、楠公精神を標榜した志士が目指したのは、江戸幕府打倒と王政復古による単なる政体変改でなく、南朝(大覚寺統)の復活と北朝皇統との交替にあった。

 皇統の交替は「国體」の変改をいささかも意味しない。皇室の相続に関する問題は、国體観念には影響しないのである。そもそも日本の国體は、日本列島に人間が住み着き社会を成して以来、徐々に醸成され、連綿と受け継がれてきた観念で、国家社会の在り方の根本を規定するものである。有史以来、「政体」には幾多の変動があったが、国體に変改はなかった。つまり国體の観念は「日本」と一体不可分で、国體が厳として存する限り日本は存続し、日本が在る限り国體がそれを支えているのである。

 後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、天皇親政の「建武新政」を建てたが、この新政体は歴史進展の法則たる封建制の進行には逆らえず、直ぐに崩壊して足利氏が室町幕府を開く。足利氏が開府に当たり皇室の信認を必要としたのは国體上当然であるが、幕府将軍に就いた足利氏は、両統迭立の先約に背いて、持明院統(北朝)のみを皇室とした。大覚寺統はこれに対し、吉野などの天嶮に拠って南朝皇室を立て、北朝と対立したので、茲に両統が並立する事態を招く。両統の対立は鎌倉時代に皇室の内紛から生じたもので、幕府の仲介により、迭立(たすき掛け相続)を合意したが、貫徹できないために此処に至ったので、固より変則事態ではあるが、国體自体を損壊するものではない。

 名分論に立って室町時代以来の北朝専立を改め、南朝の復活を目指す動きは、江戸幕藩体制にも潜在していた。元和元年、大坂夏の陣により徳川氏が覇権を確立するや、徳川家康は「元和元年八月應勅」と銘打った『公武法制』を定めた(『南紀徳川史』)。其の第十二条に、「尾州大納言義直と紀州大納言頼宣両人は将軍と並んで三家と定める。これは将軍が万一傍若無人の振舞を致し国民が迷惑する時は、右の両家から代りが出て天下政道を治めるためである。このため両家は、諸賦役を免除されて官職従三位を賜り、尾州は六十二歳、紀州は六十六歳で大納言を賜り、国中の諸侯は将軍に準じて尊敬致すべきこと」と定めている。つまり、徳川御三家とは本来、幕府将軍家及び将軍職の直接継承資格を有する尾張家・紀州家の三家を指すものであって、水戸家は入らない。

     続く。




●疑史 第74回                 評論家・落合莞爾 

 ★辰吉郎と閑院宮皇統(1) 
 
 前月まで数回にわたって論じた「清朝秘宝の運命」の中で、之に関わった堀川辰吉郎が京都皇統に属することを明らかにしたが、以下に辰吉郎の背景たる「京都皇統」について略述する。

 辰吉郎は孝明天皇の世に隠れた直系で、遡れば孝明→仁孝→光格と三代の天皇が続く閑院宮系皇統の直系である。江戸幕末が光格帝に始まるとの論が近来盛んで、慶応大学講師竹田恒泰氏も、先年の講演でその事を強調していた。竹田講師の父は竹田恒和日本オリンピック委員会会長で、伏見宮皇統から出た北白川能仁親王の曾孫に当たる。

 宝歴七(一七一〇)年、直系皇嗣が途絶える場合に備えて、新たに世襲親王家を創立することに幕府の了承が得られ、東山帝の子で中御門帝の同母弟に当たる直仁親王に、霊元上皇から閉院宮号と所領一千石が与えられた。七十年後の安永八(一七七九)年、東山帝の四代孫の後桃園帝が二十二歳で崩御して、ここに皇嗣選定の必要が生まれた。皇嗣の候補は世襲親王家に求める外なく、伏見宮貞敬(一七七六年生)と二代目閑院宮の第一皇子美仁(一七五八年生)、及びその弟の祐宮師仁(一七七一年生)の三親王に絞られたが、生まれたばかりの先帝の遺児欣子内親王の女婿となるには独身が条件で、まず美仁親王が除かれた。残る二人の内、後桜町上皇(百十七代桜町女帝)と前関白近衛内前は貞敬親王を推したが、十日に亘る議論の末、関白九条尚実の推す師仁親王が先帝の七親等で現皇統と血統が最も近いことから、先帝の猶子となって皇統を継ぎ、光格帝となった(在位安永八【一七七九】年~文化十四【一八一七】年)。

 光格帝は、男系血統を遡れば後崇光院太上天皇(伏見宮貞成親王)に行きつく北朝直系であるが、世襲親王家の閑院宮から出たことを以て「光格王朝」の始祖と視るべきものであろう。また閑院宮二代の典仁親王が、光格天皇の父として明治以後慶光天皇と呼ばれることから、直仁親王→慶光→光格→仁孝→孝明と続く直系を、「閑院宮皇統」と称しても、差し支えはないと思う。

 光格帝の事績については巷間史書の記載も多く、また『ニューリーダー』十二月号(*後日紹介)にも詳述したからここには省くが、何を以て幕末の嚆矢とするかが問題で、それを京都学習院の開設と考えるのが一つの観方である。光格帝が設立を企てた学習院は、光格帝崩御二年後の天保十三(一八四二)年に、仁孝帝が幕府の承認を得て開設に漕ぎつけ、当初は幕府を意識して、「学習所」「習学所」など名称も一定しなかったが、孝明帝が嘉永二(一八四九)年に「学習院」の勅額を下賜した以後は学習院を公称とし、明治期に東京に設立された華族子弟のための学習院と区別するため、今は「京都学習院」と呼ばれている。

 公家の子弟を生徒とし、儒学を主として和学を取り入れた教科の会読・講釈を中心とした授業を行った学習院が、文久二(一八六二)年七月頃から急増した朝廷と諸藩の間の折衝の場になり、さらに翌年二月には陳情建白の類を受け付ける機関となったのは、公家側の情報蒐集の名目の下に、以前から尊皇諸藩の下級武士の登院を許していたからである。安政六(一八五九)年十月、安政の大獄により下獄中の吉田松陰は、門人・入江九一に、「学習院をして『四民共学の天朝の学校』たらしむべし」との遺志を託した。平和ボケの今日、その政治哲学だけが強調されている松陰の本質は軍学者で、その松下村塾は政治哲学だけでなく★軍事的実践(テロリズム)を説く学校であった。松陰は、学習院の本質を洞察して右の遺言を託したのである。

 職能集団の公家の中で武事を家職とする羽林家では、中山大納言のごとく、幕府対策上表面は文弱を見せながら、秘かに武略を研究していたフシがある。当時の学習院には、公家方が軍事的実践を家職とする公家侍と尊王諸藩の下級武士を集めて、秘かに尊皇思想と軍事学を習得させる目的があったのかと思う。尊皇各藩も之に応じ、「学習院御用掛」あるいは「学習院出仕」と呼ぶ要員を学習院に派遣し、主なものに長州藩の桂小五郎・久坂玄瑞・高杉晋作、福岡藩の平野国臣、肥後藩の宮部鼎蔵、土佐藩の土方楠左衛門らがいた。かくて学習院は、尊王攘夷の急進派が、広く公家と諸藩志士を糾合して日々国事を論じ、倒幕の陰謀を巡らす場となった。

 ところが、文久三年に「八月十八日の政変」が起こり、公家の公武合体派が三条実美ら尊攘派を処分するとともに、学習院に対しても長州藩士ら関係者の出入りを禁止し、陳情建白の受理も停止した。以後の学習院は、本来の教育機関としての姿に戻り、明治元年には「大学寮代」と改称したが、同三年に廃止され、後に東京学習院に引き継がれた。

 こうして観れば、松陰の遺言に徴するまでもなく、学習院が公家の子弟に対する軍事教育を隠れた目的とするのは明らかであり、その設立を決心された光格天皇は、胸中それを秘められていたものであろう。蓋し、事を興すにはまず人材の養成から始めねばならず、光格帝の学習院設立計画を以て江戸幕末の嚆矢とする所以である。仁孝帝に皇位を譲った後も上皇として御所に君臨した光格帝は、天保十一(一八四〇)年に崩御されたが、次の仁孝帝も六年後に崩御、弘化三(一八四六)年に十五歳で即位された孝明帝の、慶応二(一八六六)年末の突然の崩御を以て、光格王朝は終わった。

 ここからが、私(落合)が仄聞した学校歴史にない★秘史である。何時の頃からか詳らかでないが、この国の支配層の間では、開国に向けての工程とそれに伴う次代の政体の探究が始まり、その実行のために皇統の入れ替えを図った。皇統の変改はこの上もない重大事であるから、関係者は極く少数で、同期する関係者たちの第一世代が、光格天皇(一七七九~一八四〇)・関白鷹司政煕(一七六一~一八四一)・将軍徳川家斉(一七七三~一八四一)・薩摩藩主島津重豪(一七四五~一八三三)らである。鷹司政煕は光格帝の叔父に当たるから、禁裏側は親族がペアを組んだものである。幕藩側は、家斉の叔母・一橋保姫が重豪の正室で、家斉の正室が重豪の娘という間柄で、これも縁戚のペアである。巷説では、家斉側に頼まれた重豪が将軍・家治の世子家基を暗殺して家斉の将軍就任を導いたというほど親密度の高い仲であった。

 関係者の二世代目は、孝明帝(一八三一~一八六六)・関白鷹司政通(一七八九~一八六八)将軍家茂(一七四六~一八六六)・福岡藩主黒田長溥(一八一一~一八八七)である。孝明帝は光格帝の孫で、関白政通は政煕の子だから、二人は又従兄弟のペアである。また将軍家茂は家斉の孫、黒田長煕は重豪の実子であるから、幕藩側もペアである。この中で、孝明帝の妹で家茂の正室になった和宮親子内親王(一八四六~一八七七)が触媒の役割得を果たす。

 右の二世代にわたる関係者が、皇統の変改を核とする幕末維新の仕上げをしたと仄聞するのだが、詳細を語るほどの情報をまだ得ていない。ともかく公認史実と異なる事実は、

  ①孝明帝は慶応二年には崩御されず、維新後も御生存。
  ②孝明帝の御子は、維新後も生きて堀川御所に住んだ。
  ③和宮は明治十年には薨去されず、その後も御生存。
  ④家茂も慶応二年には薨去していない。

  以上が真相ということであるが、これには和宮の家茂への降嫁と東京遷都が深く関係しているらしい。

 そこで、第一世代の動向を観ると、天明七(一七八七)年、庶民「天明の飢饉」の苦難からの救済を求めて天皇に訴える「御所千度参り」が発生した。参拝者が一日七万人に達した時、十六歳の光格帝は、新任関白の鷹司輔平を通じて武家伝奏に命じ、京都所司代に対して窮民救済に関する申し入れさせたところ、すでに五百石の救恤米を決定していた幕府は、新たに千石を追加して朝廷に報告した。皇室権威の復元を目指して朝廷儀式を復旧した光格帝は、文化十(一八一三)年には石清水臨時祭を、翌年には賀茂臨時祭を復活した。この間、幕藩側では、将軍家斉と島津重豪の間で何かを談合し、協定が結ばれたらしいが、内容は未詳である。

 第二世代は、一八五〇年代から六〇年代にかけて、幕府側か皇室の伝統的権威と幕府を結びつけて、江戸幕府体制の再構築を図る公武合体政策を建てた。幕府権力の再強化や雄藩の政権への参加を目的としたもので、皇妹和宮の将軍家茂への降嫁が文久二(一八六二)年に決定、翌年に婚儀が行われた。之に先立つ万延元(一八六〇))年、新見正興を正使、小栗忠順を監察とする遣米使節がポーハタン号で米国に派遣されたが、使節団の米国訪問中の三月三日、大老・井伊掃部頭が水戸・薩摩の浪士に暗殺された。

 直ちに寺社奉行・町奉行・勘定奉行に大目付・御目付を加えた江戸幕府の最高裁たる「五手掛り」が聞かれたが、書記に当たった評定所留役・小俣景徳が、後に帝国大学史談会で次のように証言した。被告たちは「攘夷鎖港のことで幕府の処置が宜しくないと謂うことを第一にして、掃部頭に私曲があった事を申した・・・あの時分に金の格が大層違ってきた、それは掃部頭が改鋳の触れの出る事を知っていて、金貨の買い占めをさせて儲けたことがあるというのであります」。「それは事実あったことでありますか?」。「あったようでございます」。

 当時の金銀比価は、国際相場の十五・三対一に対し日本国内は四・六対一で、米ドルが三・三倍に評価されるドル高両安のために大量の金貨が日本から流出し、之に対処するため小判の改鋳による金量の低減が計画された。日米修好通商条約の通貨条項を改訂するために渡米する小栗忠順は、渡米前に配下・三野村利八に命じて天保小判を買い占めさせた。三野村の大儲けは当時から評判であったが、水戸浪士たちは井伊大老が小栗に命じたものである事を知っていたのである。「五手掛り」は事実を認定したが、「それを吟味すると、上(カミ)にまで及びますので、それに先方もそれは枝葉で、飽くまでも攘夷と条約締結が表向きになっておりますので」として、このインサイダー取引を井伊掃部頭が幕府利益のためにしたものと判断した。

 鳥羽伏見の戦いの後、江戸城における評定で新政府軍に対する交戦継続を主張して罷免された小栗は、三野村に米国亡命を勧められたが応じず、勘定奉行を辞任して領地の下野国・権田村に隠遁した。慶応四(一八六八)年、無血開城の江戸城に入った官軍は、例のインサイダー取引による莫大な利益を知っていたから、城内の金蔵が空なのは小栗が隠匿したと判断し、小栗が大量の荷駄を赤城山に運びこむのも目撃されていたから、直ちに派兵して小栗を捕え、厳しく吟味するが結局解明できず、小栗ら三人を斬首した。真相は、この利益金は秘かに京都西本願寺に運ばれ、孝明帝に献金されて公武合体基金となったと聞くが、無論大老井伊直弼の発意であろう。幕末開国に向けた工作も既に最終段階に達していたから、この孝明基金は王政復古ではなく、明治以後の国事に充てられることとなった。

 
  ●疑史 75回 へ続く。




●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)-2
 
 ★最大の御事績は「学習院」の設立
 
 光格天皇の事績は「尊号一件」を始めとして数多く、本稿には枚挙する紙数がないが、特筆すべきは京都学習院の設立である。公家の子弟のための公的教育機関たる大学寮が平安末期の安元の大火(一一七七年)以来廃絶していたので、光格帝は再建を目指したが、在世中には実現せず、次代の仁孝帝に持ち越された。仁孝帝が幕府の承認を得て学校の設立が決定したのは天保十三(一八四二)年で、光格帝崩御の二年後であった。弘化三(一八四六)年には御所の建春門外に講堂が竣工し、翌年には講義が開始されて、三条実万が初代の伝奏(学長)に就任した。当初の名称は、幕府を意識して「学習所」「習学所」など一定しなかったが、孝明帝が嘉永二(一八四九)年に「学習院」の勅額を下賜して、以後は学習院を公称とした(明治期に東京に設立された学習院と区別するため、今は「京
都学習院」と呼ばれている)。学習院は公家の子弟を生徒とし、儒学を主として和学を取り入れた教科の会読・講釈を中心とした授業を行った。

 安政の大獄により下獄中の吉田松陰は、安政六(一八五九)年十月、学習院をして「四民共学の天朝の学校」とすべき遺志を門人・入江九一に託したという。本質的には軍事学者の松陰が、今日では政治哲学だけが強調されているのは平和ボケの最たるものであるが、要するに松下村塾とは、政治哲学だけでなく★軍事的実践(テロリズム)を説く学校であったわけで、学習院も、松陰の遺言に徴するまでもなくテロリスト養成所であった。軍事的実践を旨とする下級武士がここに登院して尊攘派公家と交わり、尊王統幕を実行する人脈を形成した。職能集団の公家の中でも、武事を家職とする羽林家は、幕府対策上から表面は文弱に見せてその実秘かに武略を研究していたようで、武門の下級藩士に当たる青侍には武術を習わせていたと聞く。

 この学習院が、文久二(一八六二)年七月頃から急増した朝廷と諸藩の間の折衝の場になり、投文・張紙などの横行に対応するため、翌年二月には陳情建白の類を受け付ける機関となった。長州藩は高杉晋作、桂小五郎ら多数の藩士を「学習院御用掛」に任じ、他藩でも土佐藩の土方楠左衛門、福岡藩の平野国臣、熊本藩の宮部鼎蔵さらに筑前の神官・真木和泉らを「学習院出仕」に任じたので、学習院は後に維新の志士と呼ばれる尊王攘夷の急進派が日々登院して国事を論ずる場所となり、諸藩の志士と尊攘派の公家が攘夷決行の密謀をめぐらす場所となった。ところが、文久年八月十八日の政変が起こり、公武合体派が三条実美ら尊攘派の公家を処分するに際し、学習院に対しても長州藩士ら関係者の出入りを禁止し、また陳情建白の受理も停止した。以後学習院は本来の教育機関としての姿に戻り、明治元年には「大学寮代」と改称したが同三年に廃止され、後に東京学習院に引き継がれた。
 
 ★中山忠伊=光格帝落胤説の真否と中山家系譜の謎
 
 学校歴史には出てこないが、光格天皇をめぐる重要な謎に中山忠尹の一件がある。安政八(一七七九)年に光格天皇が九歳で帝位に就くや、権大納言・中山愛親は天明二(一七八二)年に議奏に挙げられ、光格帝の側近として輔翼した。寛政四(一七九二)年の「尊号一件」に当たっては、正親町公明と共に正副勅使として江戸に下向、老中松平定信と交渉した。

 ここからがインターネットから転載した教科書歴史にない異説である。

 すなわち、正親町公明と共に閉門・逼塞の実刑を受けた中山愛親は、憤激の余り秘かに倒幕を図るが、幕府の察知する処となり、愛親の子の権大納言中山忠尹が、父と光格帝の反幕的行動に関する一切の責任を取り、文化六(一八〇九)年に自死した、とする(落合注・真否未詳)。いうまでもなく、これは尊号一件より十七年後である。

 さらに「それでも倒幕の志を棄てない光格天皇は、第二皇子・小松中官長親王を、忠伊【ママ】の子の中山忠頼に頼み、養子にしてもらいました。この子の名前も中山忠伊。おそらく、自害して果てた愛親の息子にちなんで名づけられたのでしょう。そして、この忠伊が、自分の祖父【愛親】・光格天皇の遺志をついで討幕運動に身を投じ〈天忠党〉を結成。また、中山忠能の実の息子・忠光も、〈天誄組〉の首領となって大和に挙兵するのですが、これはもうちょっと後の事件です」と説くのである。

 家禄二百石の中山家は大納言を極官とする羽林家で、栄親→愛親→忠尹→忠頼→忠能→忠愛と男系を以て続くが、異説として愛親の父が栄親の弟の正親町実連とする記録も存在しており、何となく謎に包まれている。また、愛親が満十五歳四ヵ月足らずの時に忠尹が誕生したのも、有り得ぬことではないがやや不自然に思う。その中山家の系譜に、さらに大きな謎が加わったのである。

 上記のインターネット記事で「中山忠尹」を「忠伊とも称した」とするのはいかにも恣意的と思われるので納得がいかないが、一応、史料に照らして解釈する。まず、光格帝の皇子は記録上八人生まれたが、成人したのは第四皇子・恵仁親王(後の仁孝帝)だけで、他の七人は乳幼児のうちに没した。記録にない庶子の存在も在りも得なくはないが、問題は所謂「第二皇子・小松中宮長親王」が皇嗣中に占むべき位置である。中山忠尹が自死したとされる文化六(一八〇九)年までに生まれた皇子のうち三人は生後直ぐに他界、ただ一人生き延びた第四皇子・恵仁親王はまだ九歳で、今後無事に育つ保証もない。現に、その後に生まれた四人の皇子は悉く夭折、結局恵仁親王たった一人が成人されたのである。こうした状況にあって、夭折しなかった皇子が他にも存在したならば、生母の身分に関わらず皇嗣候補として貴重な存在で、中山家に養子に出す余裕なぞ有るべくもない。つまり、光格帝に当時「小松中宮長親王」なる皇子が存在したのなら、仮に庶腹であっても皇籍から外すことはまず有り得まい。

 因みに、仮に恵仁親王はじめ皇子がすべて夭折した場合には、その日のために置いた世襲親王家(それも閑院宮家)から皇嗣を選ぶこととなるので、宮廷の混乱も特にない。事は苟も皇嗣問題であるから、いざとなれば世襲親王家をアテにする所存で、光格帝の庶子を「小松中宮長親王」と称して中山家の養子に入れたなぞ有り得まいが、閑院宮皇統ならばどうか。つまり、インターネットにいう「中山忠伊=光格天皇落胤」説は首肯し難いが、閑院宮家の庶子ならば全くあり得ぬことではないと思う。当時、養子に準じた猶子という縁組制度があったから、或いは光格帝は、閑院宮流の庶子を秘かに猶子とし「小松中宮長親王」と称したのかも知れぬ。

 ともかく、中山忠尹が「光格天皇の遺志をついで討幕運動に身を投じ〈天忠党〉を結成」したというのは学校歴史にはない異説で、本稿も之を論ずるに典拠がないが、「中山忠能の実の息子・忠光も、〈天誅組〉の首領となって大和に挙兵するのですが、これはもうちょっと後の事件です」と説く「天誅組」の方には史実があるが、紙数が尽きたので、これについては、次月号に譲る。 
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)     <了>。 


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)-1                落合莞爾

 -光格帝の御事跡と閉院宮系天皇子孫=京都皇統の経綸
 
 ★世襲親王家閑院宮と「光格王朝」の誕生 
 
 近来「江戸の幕末ないし日本の開国は、実は光格帝に始まった」との所説を耳にすることが多い。先年も、竹田恒泰慶応大学講師が、講演でその事を強調していた。竹田講師は竹田恒和日本オリンピック委員会会長の長男で、伏見宮皇統に属する北白川能仁親王の四代孫に当たる。以下では、伏見宮皇統から分岐した閉院宮皇統から出て「光格王朝」を開始した光格天皇の御事績が幕末の発端をもたらした所以と、その末裔で維前後の日本を経綸した「京都皇統」について述べることとする。

 前月稿(「手記47」)で堀川辰吉郎と松下トヨノを京都皇統と論じたが、「京都皇統」とはいうまでもなく造語である。そもそも、わが皇室の根本観念をなす「万世一系」は、必ずしも特定の血統に拘泥したものではなく、各時代において皇位を保持した系統が時宜に応じて交代しながら、連綿として皇室を継承してきたことを意味するもので、皇統のこうした交代は恰も西欧でいう王朝交代に似た外観を呈しているが、彼我の差異を論じるのは本稿の主意でない。ついでにいうと、大和民族の根本観念たる「単一民族」というのも、縄文系・倭系・ツングース騎馬人系はいうに及ばず、漢系・百済系、さらにはポルトガル系タカスなどの渡来諸民族の混合体であって、しかも完全な混血には至っていないのに、敢えて単一民族と観念したものである。

 さて、ここに「京都皇統」とは、百十九代光格帝(在位安永八【一七七九】年~文化十四【一八一七】年)に始まり、仁孝帝を経て孝明帝(在位弘化三【一八四六】年~慶応二【一八六六】年)に至る三代の閉院宮系天皇の子孫を指すもので、其の所以を陳べるに、百一三代東山帝の御子で百十四代中御門帝の同母弟の直仁親王が宝歴七(一七一〇)年、世襲親王家として新たに閑院宮を創立したことに始まる。これは将来、直系皇嗣が途絶える場合に備えたもので、新井白石の建言というのは作り話との説もあるが、ともかく霊元上皇により、直仁親王に対して閉院宮号と所領壱千石が与えられた。

 これが功を奏するのは七十年後で、安永八(一七七九)年東山帝の四代孫たる百十八代後桃園帝が二十二歳で夭折して、皇嗣選定の必要が生まれた。皇嗣の候補は、皇統の予備として設けられた世襲親王家に求める外なく、伏見宮家の貞敬(一七七六年生まれ)と閉院宮の二代目典仁親王の第一皇子美仁(一七五八年生まれ)、及びその弟の祐宮師仁(一七七一年生まれ)の三親王に絞られたが、先帝の遺児で生まれたばかりの欣子内親王の女婿となるために独身が条件とされて、まず美仁親王が除かれた。

 残る二人の内、後桜町上皇(百十七代桜町女帝)と前関白の近衛内前は貞敬親王を推したが、いかに世襲親王家の筆頭とはいえ、伏見宮家は現皇統とは既に十数代を隔たっていた。十日に亘る議論の末、関白九条尚実の推す師仁親王が、先帝の七親等(百十六代桃園帝及び後桜町女帝とは六親等)で現皇統と血統が最も近いことから、先帝の猶子となって皇統を継いだ。これすなわち光格帝で、遡れば伏見宮貞成親王に至る北朝血統であるが、世襲親王家の閑院宮から出たことで、ここに「光格王朝」の始祖と視るのである。初代閑院宮直仁親王は東山帝の御子で中御門帝の弟であるが、その御子の二代目典仁親王は、光格天皇の父として今日では慶光天皇と呼ばれるから、以後光格帝・仁孝帝・孝明帝と続くこの系統を「閑院宮皇統」と称して差し支えはない。 
 
 ★幕統を総覧した徳川家斉  関白職を独占した鷹司家 
 
 孝明帝の後は維新により政体が一新、東京遷都により皇室制度に著しい改変がもたらされ、「万世一系」の初代を明治天皇とする明治憲法(滝川幸辰博士説)が欽定されたが、南北朝正閏問題が論じられるや明治大帝は南朝正系を勅裁されたのに鑑みると明治大帝を王朝の始祖と視るのが至当である。以後、大正・昭和を経て今上に及ぶ現皇統を「東京皇室」と称えるが適切と思うが、この辺を論ずるのは別の機会にする。としもかく本稿の主張は、明治維新以後、孝明帝の直系が意図的に世に隠れ、京都堀川御所に潜んで秘かに国事に関わった秘事である。閑院宮皇統の本流とも視るべきこの系統を、「東京皇室」との対比で「京都皇統」と呼ぶのが適切であろうと思う。

 さて「京都皇統」の事績を一覧すると、光格天皇の父ゆえ明治以後慶光天皇の尊号で呼ばれる二代閑院宮の五歳下の同母妹の五十宮倫子内親王は、宝暦四(一七五四)年に十代将軍家治の正室になった。東山天皇の孫で兄が慶光天皇、甥が光格天皇の倫子内親王と将軍家治の結婚は、後講釈ではあるが公武合体と謂うも差し支えない縁組であったが、男児に恵まれぬ内に、五十宮が明和八(一七七一)年三十四歳を以て薨去され、閑院宮系皇統の血は結局幕統に入らなかった。

 倫子内親王と同年の異母弟淳宮は、寛保三(一七四三)年に摂関家の鷹司家を継ぎ、鷹司輔平となる。その曾孫の輔煕が明治五(一八七二)年に隠居、家督を九条家から入った煕通に譲るまでの三十年もの間、鷹司家は実質的に閑院宮系皇統の一支流であった。

 安永八(一七七九)年九歳で皇位を継いだ光格天皇は三十七年間在位して、文化十四(一八一七)年に十七歳の第四皇子仁孝天皇に譲位したが、以後も上皇として禁裏に君臨し、天保十一(一八四〇)年に六十九歳で崩御した。即位より通算して六十年に亘り、真に王朝創始者に相応しい生命力を示したが、年数だけでなく顕著な事績を数多く残した。

 光格帝が即位した時の、叔母の夫の徳川家治が幕府将軍であったが、光格帝の在位八年目の天明六(一七八六)年に他界した。世子家基が夭折していたので、幕統予備の御三卿たる一橋家から家斉が入って翌年十一代将軍に就き、五十年後の天保八(一八三七)年に世子家慶に譲った後も大御所政治を布き、天保十二(一八四一)年に六十九歳で没するまで、実に五十四年間も幕政を総覧した家斉の事績は、正に政体の「家斉王朝」の創始者に相応しく、光格天皇の御事績に対応するものと謂えよう。

 家斉が幕統を継いだ天明七(一七八七)年、慶光天皇の実弟鷹司輔平(一七三九~一八一三年)が関白に就き、寛政三(一七九一)年まで十四年に亘り、甥の光格帝を善く輔佐した。輔平の後は四年間だけ一条輝良が関白に就くが、寛政七(一七九五)年には輔平の子鷹司政煕がこれに代り、文化十一(一八一四)年まで十九年間、従兄弟の光格帝を支えた。その後一条忠良が関白に就くが、九年後の文政六(一八二三)年政煕の長男政通に替わり、安政三(一八五六)年九条尚忠に譲るまで三十三年に亘って関白に就く。光格上皇と仁孝天皇を輔佐した鷹司政通は、孝明天皇の信頼も厚かった。かくて、一七八七年から一八五六年までの七十年の内、閑院宮系鷹司家が三代に亘り五十七年もの間、関白職を独占したのである。 
 
 ★「明治皇室」を監督する「京都皇統」の重要人物 
 
 さらに鷹司家は、家格が摂関家(五摂家)に継ぐ清華家(九清華)の一つ徳大寺家に入って、閑院宮系の活動領域を広めた。すなわち、輔平の子で政煕の弟の実堅が徳大寺の養子になり、さらに輔平の孫政通の子の公純が大叔父・徳大寺実堅の養子になる。徳大寺実堅は仁孝帝の信認が厚く、後述の学問所(京都学習院)設置の意向を受けて、武家伝奏として幕府と交渉した。実堅の後を継ぎ、多事多端の幕末に禁裏の重責を担った徳大寺公純の三人の男子が、「東京皇室」の侍従長兼宮内卿に就いた徳大寺実則、内閣総理大臣・西園寺公望、及び住友財閥の当主・住友吉左衛門友純となる。この三人は徳大寺公純→鷹司政通→鷹司政煕→鷹司輔平→閑院宮直仁親王→東山天皇と、男系で続く閑院宮皇統の六代目で、「京都皇統」と極めて近い関係にある。

 かくて光格帝即位以来幕末までの九十年間、閑院宮系皇統が帝位と関白職をほぼ独占して名実ともに御所を統御したが、明治四(一八七一)年に徳大寺実則が侍従長兼宮内卿に就き(明治二十四年内大臣に異動)、明治大帝の崩御まで常に近侍したのは偶然の人事ではない。思うにこの人事の真の目的は、世に隠れた「京都皇統」の秘事を守ることにあり、有体に言えば、「京都皇統」の立場で「明治皇室」を監督する枢機の位置に徳大寺実則を充てたものと考えられる。

 明治大帝崩御により徳大寺実則は辞任、後を受けて大正天皇の侍従長になったのは鷹司煕通であった。陸士旧制二期卒で、早くから東宮武官・侍従武官を歴任して陸軍少将に昇った煕通は、関白九条尚忠の子で鷹司輔煕の養子となったが、実は徳大寺実則の女婿でもあるから、この人事にも「京都皇統」との関係を見取るべきであろう。

 光格天皇の御生母・大江磐代は、鳥取藩の陪臣(家老荒尾氏の家臣)岩室宗賢と大鉄屋の娘オリンの間に、延享元(一七四四)年に生まれた。父方岩室家の先祖は近江国甲賀郡岩室郷の地頭で地名を苗字にしたが、本姓は大江である。母の生家は「大鉄屋」という鉄問屋で、豪商淀屋の系類と謂われ、姓は堀尾氏との説があるが未詳である。父宗賢が浪人し、上京して町医者となったが、その家格は天皇生母としては例外的な低さである。

 幼名をツルと称した磐代は、早くから橘姓を名乗り、中御門天皇の皇女成子内親王の侍女となった。成子内親王が閑院宮典仁親王に嫁ぐ時、従いて閑院宮家に入り、典仁親王の寵愛を受けて三人の皇子を儲けた。磐代が産んだ長男が第六皇子師仁親王すなわち光格天皇、次男が第七皇子盈仁入道親王で聖護院門跡を継ぎ、一人は夭折した。

続く。
 




●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)-2 
 
 ★紀州徳川家の古陶磁換金を阻んだ吉薗周蔵 
 
 それはさて、辰吉郎が博多から上京した頃、堀川御所生まれの重要女性が、堀川御所を出て紀州和歌山に移った。戸籍上では辰吉郎と同じ明治二十四年生まれの其の女性は、和歌山市郊外海部郡加太村の池田酒店の娘として突然降臨した。加太村K家の伝承では既に七歳で、「まるで天狗さんに育てられた子のようであった」と謂うから、実際の生年は明治二十年生まれとしで良いのであろう。女性の戸籍名は松下トヨノであるが、豊子と自称した。

 私(落合)が松下豊子の名を聞いたのは、恩師稲垣伯堂画伯から紀州家由来の古陶磁を引き受けた平成二年のことである。当初、焼物研究の師匠として選んだ岸和田市の研究家・新屋隆夫が初会の日にその名を□にした。「自分は、陸軍大将・荒木貞夫から義理の孫と認められていたが、荒木大将から松下豊子さんを紹介され、《この御方の美術品の面倒を観るようにと命じられた》)と謂うので、先考に尋ねたところ松下豊子は謎の貴婦人であると教えられた。わが叔母(実母の妹)たちも、その父・小畑弘一郎から聞いて松下豊子の噂を知っていた。その後、和歌山に隠棲した私(落合)は、至るところで豊子の話を聞いたが、ことに和歌山市加太では、今でも中年以上では知らない人は居ないと言って良い。

 紀州家古陶磁の来歴を探究していた私(落合)が、岸和田市の陶芸家・南宗明夫妻に案内されて、貝塚市の五味紡績の社主を訪ねたのは平成六年頃であった。その際にもK家の名が出たが、五味夫人の話では、昭和三十年にK家の当主に案内されてきた松下豊子と名乗る女性から、「紀州徳川家に素晴らしい東洋古陶磁があるので、その展観施設を作る計画に加わらないか」と誘われた。五味家の当主も乗り気になり、適地を探して一緒に行動して鎌倉まで行った事もある、とのことであった。

 それから数年経った平成八年、吉薗周蔵が大正九(1920)年に奉天で作った『奉天古陶磁図経』が周蔵遺族から手元に来た。ほぼ同時に、周蔵が昭和三十年に記した「紀州徳川家に入った焼物のこと」と題した手記も入手した。それによると、昭和三十年初頭に、千葉の犢橋(*現、花見川区)に住む周蔵を、陸軍中将貴志彌次郎の養嗣子・貴志重光が訪ねてきて、「自分は紀州家古陶磁の売却商談を進めてきたが、神戸の買手から真贋混淆を指摘されて頓挫中なので、真贋弁別のために貴殿が奉天で作った図譜を借りたい」と申し出た。

 紀州家の徳川為子夫人と松下豊子が企てたその商談に荒木大将も関与している、と聞いた周蔵は、真贋混淆のまま売却する意図を覚り、張作霖と紀州家を仲介した貴志彌次郎が、将来の真贋混淆を何より懼れていた遺志を慮って、図譜の貸与を断った、とある。この記載から、紀州家では昭和二十九年頃から古陶磁の一部を換金する動きがあったが、周蔵の非協力もあり失敗し、計画を展観施設の設立に変更したとの推察ができた。 
 
 ★将軍・家茂も和宮も生きて子をなした?
 
 K家は江戸中期に淡路島から加太村に移って造船業を営み、後に材木商に転じた富豪であるが、昭和三十年代に当時の当主がトヨノの財務に携わったことを遺族は今も記憶している。「関わったのは古陶磁ではなく、慈覚大師を祀る宗教施設の建立計画であった」と遺族は謂うが、五味家の伝承と合わせて判断すれば、宗教施設の建立資金を紀州古陶磁の売却によって捻出せんとした訳で、直接換金が難しいことを覚って展観施設の設立に変更したのであろう。

 何故慈覚大師なのか。それは皇女・和宮が将軍・家茂に降嫁するに当たり、公武合体を象徴する婚貨として持参した北朝重代の秘宝が、慈覚大師自作の十一面観音像と仏舎利であったからである。和宮からそれを相続したトヨノが祭祀施設の建立を志し、紀州徳川家もその志に賛同して、古陶磁の一部換金を図ったようだ。トヨノの言では「和宮の秘宝は徳川家の蔵に在ったが、渋沢栄一が持参した」とのことであった。明治十年に箱根塔ノ沢温泉で脚気により薨去した和宮が、実はその後も生存していたことをトヨノから聞いていたK家の先代は、トヨノが和宮の実子か実孫であると信じていたという。そうなれば家茂も大坂城で死んではおらず、隠れ住んだ二人が秘かに子供を儲けたという話になる。私(落合)が右(↑)の一件を「その筋」に確かめたら、「和宮が兄・孝明帝に、(家茂様のようにお隠れ遊ばしませ)との示唆をなされた」との答えであった。

 第二次長州征伐軍を率いた家茂は、慶応二年(1866)七月二十日大阪城で急死、四ヵ月後に家茂の義兄・孝明帝も突然崩御された。小判改鋳に乗じて家茂の公武合体献金を捻出した小栗忠順も、一年後に薩摩兵に惨殺される。これらは公武合体の本当の筋書に法ったものと考えざるを得ないが、家茂と和宮の間に生まれた娘ならば、正に公武合体の象徴である。トヨノがその娘の実子なら、次の一言の謎を解く手懸りになる。
 
 ★替え玉説の可能性と岩倉具視が厳秘した自害説
 
 「今の天皇は南朝であるが、私は北朝である。もし男だったら私が皇位に就いていた」とトヨノが漏らしたのを直接聞いた人がいる。この言の解釈については、本稿はまだその段階ではないが、現時点で考察する限り、トヨノは男系血統を論じたと視るべきであろうから、トヨノの実父は北朝皇統に属する男子で、母が和宮の御娘という筋合になろう。和宮に関する重要関係者の動向は、慶応二年七月二十日家茂が大坂城にて死去(暗殺の噂が高い)、同年十二月二十五日孝明天皇崩御(暗殺の噂が高い)、慶応四(明治元)年閏四月小栗忠順殺害(一種の暗殺)というものである。その後、二十四歳の和宮は明治二年一月十八日に京へ向かい、五年半御滞在され、七年六月二十四日に東京へ帰られた。三年後の十年八月七日、脚気治療のため箱根塔ノ沢へ湯治に行き九月二日薨去、とある。

 和宮を巡る巷説に、①降嫁の当初からの替玉説、 ②中仙道の某宿で自殺し他人が入れ換わった説、などがあるが、昭和三十四年に芝増上寺墓地から和宮の御遺体を発掘した時、発掘調査団に宛てて来た手紙が興味深い。和宮に仕えた御祐筆の孫からのもので、「明治五年ころ、岩倉卿と祖母が主になって少数の供廻りを従え、和宮様を守護して京都へ向う途中、箱根山中で盗賊に逢い、宮を木陰か洞穴の様な所に匿い、祖母も薙刀を持って戦いはしたものの、家来の大方は斬られて傷つき、やっと追い拂って岩倉卿と宮の所に来て見たところ、宮は外の様子で最早之までとお覚悟あってか立派に自害してお果てなされた」との内容で、岩倉が一切を厳重に秘したと語る。

 世を謀るには影武者が基本であるから、替玉説はいかにも有りうる話であるが、静寛院宮の京戻りも、同じく世に隠れた家茂と堀川御所あたりで一緒に暮らすためならば合点が行くし、在京の五年間には、本人か替玉による秘かな江戸往復があってもおかしくはない。     

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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47) <了>。




●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)-1
  京都皇統の二大重要人物・堀川辰吉郎と松下トヨノ 
 
 ★故意に流された明治天皇落胤説 
 
 先月稿では、明治二十年に堀川御所を出た七歳の辰吉郎を博多で迎えた杉山茂丸の背景を述べた。本稿は、活字資料のほとんど存在しない辰吉郎の博多時代を、中矢伸一『日本を動かした大霊脈』から窺うことにする。中矢前掲は、『日本週報』昭和三十四年六月十五日号から十一回にわたり隔週掲載された森川哲郎の「不思議な人物」を再編成したもので、副題を『堀川辰吉郎一代記』とするが、その記事内容は森川が辰吉郎から直接聞いたままを記した聞書である。特徴は、辰吉郎が生年を明治十七年と自称したのを真に受けたために時制が史実に合わず、祖述者の中矢を混乱させている点である。

 辰吉郎は、井上馨の兄重倉の五男と入れ替わったため戸籍上の生年は明治二十四年であったが、実際の生年について、森川の祖述者として十七年説に立つ中矢は、大正天皇の御生年との絡みで十二年説をも重視する。本稿は、近来仄聞した「明治二十年辰吉郎七歳の時に、堀川御所で松下トヨノが出生したのを機に、博多へ遷った」との話を信じて明治十三年生まれで一貫することにする。

 誕生地は本人の言でも京都堀川で、実母については語らないが、「博多湾の岸壁にそった城郭のような広壮な邸宅」で辰吉郎に仕えた養母は堀川千代といい、「京都の堀川御所から彼の養育のために来た女」であることを、辰吉郎は千代の死後に知った。蓋し、辰吉郎の博多行きに合わせて、京都皇統が養育係の千代を派遣したのであろう。

 実年齢に従い現地の小学校に入ったと見られる辰吉郎は、桁外れの悪童ぶりを発揮して退転校を繰り返したので、千代はその都度「玄洋社総裁の頭山満、右翼の大物であった杉山茂丸、時の県知事に」相談したと中矢は記す(原文まま)。有体に言えば、堀川御所命で千代は、辰吉郎の日常をこの三人に報告していたわけだ。県知事とは安場保和のことで、福岡県知事としての特別任務が玄洋社支援と辰吉郎の監督だったから、これは当然である。中矢前掲著には頭山が随所に登場するのに対し、茂丸の出番がこの一か所だけなのは、辰吉郎自身が茂丸との関係を隠し、代わりに頭山の名を出したからであろう。死ぬまで茂丸との関係を秘した辰吉郎が、此処にだけ茂丸の名を挙げたのは、茂丸が真の傅役であったことを暗示したものではなかろうか。

 辰吉郎の尋常ならざる日常が巷間憶測を呼び、やがてその貴種たることが噂となるのをとっくに計算済みの堀川御所側は真相隠蔽のために、実父が明治天皇であるとの虚説を故意に流したものと思われる。この種の策略は世間心理を利用するのが要諦で、真相を全く隠蔽してしまえば辰吉郎はただの我儘坊ちゃんとして扱われ、結局大役を果たすことが出来ない。辰吉郎の実父について中矢前掲は、断言を避けながらも明治天皇落胤説に立ち、中島成子の実子・中丸薫も父辰吉郎の明治天皇落胤説をかざすが、宮内庁はそこを質されるとハッキリ否定するので、世間一般の扱いは、中矢前掲を単なる奇書とし、中丸を女天一坊として冷笑する。尤も、明治帝の落胤でないのは確かで、宮内庁を責めるわけにはいかない。両人は結局、堀川御所発の噂に嵌められているわけである。とすれば、中丸と中矢が口を揃えて辰吉郎の実母という千種任子(1856~1944)は、実際にも明治天皇の典侍であったから、作り話の一環と視るべきである。辰吉郎の実母は何れ堀川御所に住んだ女性に違いなく、岩倉具視の親族と囁かれているが、それ以上は聞こえてこない。

 「皇統譜に中丸薫の記載有り」と仄聞した時は、正直言って「まさか」と思ったが、その直後に「京都皇統」の存在を教えられて成程と思った。中丸薫が辰吉郎の娘であることを強く否認する中矢も、「辰吉朗の拳銃の腕前を中島成子が讃えた」と述べ、辰吉郎と成子を無縁とは言わない。因みにこの一件には、海軍切っての俊秀で、故あって辰吉郎に仕えた海軍大佐・矢野祐太朗が絡んでいると聞くので、備忘のためここに記しておく。
 
 ★学習院を退学処分に  「大陸に渡らせたら」 
 
 博多時代の辰吉郎の悪戯の中で特筆すべきは二件で、一つは「博多名物の放生会の夜に盛装して集まってくる人たちの着物の紋を、彼ら悪童たちを指揮して、片っ端から切り取って集めさせた」ことである(中矢前掲)。被害者は善男善女で一丁羅の晴着を台無しにされた損失は少なからず、有谷な要素の何もない愚劣な所業と謂うべきである。もう一つは、子供同士の院地打ちに地元のヤクザが絡んできたのを怒った辰吉郎が、ヤクザの家に放火したところ周囲の家屋に延焼したもので、前に輪を懸けた悪質な犯罪である。警察が辰吉郎はじめ悪童を一網打尽にしたのは当然で、厳しい処分が待つ筈を、千代が抗議しまた頭山満や県知事が介入したために内済となり、千代は全財産を投げ打って被害者に献身的に尽くしたという。

 放火事件の時期について中矢前掲は、「時の頃は明治二十七、八年の九月半ばであった。当時十一歳であった辰吉郎は・・・」と謂うが、こんな重大犯罪を収めようとする福岡県知事は辰吉郎の保護監督の密命を帯びた安場保和しかいない。したがって、その時期は安場が愛知県知事に転ずる明治二十五年七月以前、すなわち二十四年九月半ばと視るしかない。確かに辰吉郎の実年齢は十一歳で小学校五年生に当たり、是非も覚束ない年齢であったから、千代では押さえが利かず、暴挙に走ったのであろう。

 中学一年まで博多に居た辰吉郎は、福岡を訪れた井上伯に千代と頭山満が加わって、辰吉郎の進路を相談しているのを立ち聞きした。上京させて学習院に入れようというのである。実年齢から推せば、時は明治二十六年で、安場は既に愛知県知事に転出してその場におらず、井上馨は内務大臣である。辰吉郎は井上伯に伴われ、千代と共に上京して学習院中等学科に転じたが校風に合わず、乱暴を重ねてやがて退学する。時の学習院長を、中矢が乃木希典将軍とするのは大錯覚で、乃木は当時少将・歩兵第一師団長で、十四年後の四十年一月に学習院長に就く。当時は陸軍少将、子爵・田中光顕が学習院長であった。

 田中学習院長から退学処分の通知があり、頭山と井上馨と千代の三人が辰吉朗の今後を相談した時、頭山が一言した。「この男の規模では日本に合いませんな。どうでしょう、いま孫文が私の手元に亡命しています。彼に預けて、大陸へ渡らせたら」との言であったが、それを聞いた辰吉郎は、「それから間もなく、生涯の盟友になる孫文に、柳橋の料亭で引き合わされた」(中矢前掲・原文まま)。その時期を中矢は、「明治三十二年、『一代記』によれば、辰吉郎十五歳春のことであった」と記すが、原典たる森川哲郎『堀川辰吉郎一代記』は辰吉郎からの聞き書きで自称通り明治十七年生まれとしているから、十五歳とせざるを得ないが、祖述者の中矢自身は内心明治十二年説を持しているため、年齢については原典を承服できず、わざわざ「『一代記』によれば」と断ったものであろう。

 辰吉郎の学習院転入が中等学科二年生とすれば、実年齢から推して明治二十七年の筈であるが、長くは在校しなかったようだから、退学の時期は大凡二十八年頃と見て良い。しかしこれは、辰吉郎が博多の小学校以来ずっと正常に進級した場合のことで、退校・転校の繰り返しの中で何年か足踏みしていたならば、その年数だけ遅れる。内務大臣井上馨は二十七年十月から朝鮮大使に転じ、二十八年十月までソウルで過ごしているから、退学後の方針をめぐる前記の談合に井上が参加しているのなら、退学の時期はやはり二十八年末と見た方が自然である。 
 
 ★孫文との出逢いはいつか 秘められた三年間に何が 
 
 ともかく学習院を中退した辰吉郎は、革命家孫文を援けて活動することとなる。天性の革命家・孫文は、明治二十八年十月の最初の挙兵(広州蜂起)に失敗、十一月日本に密航してきた。これが初来日で翌年ハワイ経由で英国に渡り、十カ月ロンドンに滞在し、連日通った大英博物館の図書室で南方熊楠と知り合い友誼を結ぶ。ここも清朝の追及が厳しく、英国を追われた孫文は、三十年八月再び日本に亡命した。この時に孫文を匿い保護したのが宮崎滔天・平山周らで、背後には玄洋社と黒龍会がいた。辰吉郎が孫文に引き合わされたのは多分この再来日の時期で、明治三十二年説を疑う必要はないだろう。

 中矢前掲によれば、辰吉郎は孫文に逢う前に「この頃、孫文より少し遅れて、日本に中国革命の大志士が、清朝政府を追われ」て渡ってきた康有為に逢った。明治二十八年九月光緒帝の下で政治改革「戊戌の変法」を図った康有為は、保守派の西太后と寵臣・袁世凱に阻まれて失敗し、同志の譚嗣同らは処刑された。中矢によれば、危機に瀕した康有為を救ったのは偶々北京を訪れていた前総理・伊藤博文で、大陸浪人・平山周、山田良政らに命じて救出せしめたが、「その事実を、辰吉郎は、井上伯に連れられた席上で伊藤公(原文まま)本人の口から聞いたと証言している」という。孫文と康有為の初来日は殆ど同じ時期で、康有為はその後も再三来日するが、文脈からしてこれは康の初来日の時、すなわち明治二十八年末あたりと推察される。因みに伊藤博文は、二十八年八月に日清戦役の功績で侯爵に陞爵したばかりで、公爵陞爵は四十年である。

 以上を総括すれば、明治二十八年に学習院を追われた辰吉郎を大陸問題に関わらせようと考えた杉山茂丸は、朝鮮駐劄特命全権大使から同年十月に帰還した井上馨に頼み、亡命客の康有為に引き合わせた。時に辰吉郎は実年齢十五歳で、その後孫文に出逢う明治三十二年春までの三年有余の間どこで何をしていたのか。それを森川に語らなかったのは意図的で、その期間にこそ辰吉郎の真の秘密があると私(落合)は思う。


      続く。
 




●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(46)
 -明治日本を専断主導したのは薩長藩閥ではなくこの怪物 
 
 ★薩摩ワンワールドと手を携えた政治結社群 
 
 本稿の淵源は、佐伯祐三絵画の伝来を巡って私(落合)が偶々入手した吉薗周蔵の手記にある。平成八年三月以来、百十八回かけて解読した分がその第一部に当たるが、一段落した後一年の休載のあと第二部に入り、「手記」以外の外部資料から周蔵の生きた世界の真相を探究した。例えば、周蔵が仕えた元帥・上原勇作の背後関係を洗うと、在英ワンワールド勢力の日本支部と見るべき薩摩軍人の結社の存在が浮かび上がり、これより進んで樺山資紀と高島鞆之助が台湾政策の基本を固めたことや、鈴木商店の真相及び周蔵が東亜煙草会社に関与した所以などが、連鎖的に明らかになった。

 それも一段落した今春、維新史の闇を透かして見えてきたのは、薩摩ワンワールドを包含する広大な政治的勢力の存在である。当時の玄洋社や西本願寺は、事実上強大な政治結社であって、薩摩ワンワールドと手を携えて日本を動かしていたことが明白になった。更に、丹波の上田氏を頭領とする大江山衆が、宗教を足掛かりにして、国内は勿論満洲にまで進出し、国家と陸軍の大陸政策の露払いをしたことも把握できた。その広大な政治勢力を統べていたのは、軍人でも政治家でも宗教者でもなく、堀川辰吉郎という白面無冠の貴公子で、辰吉郎を輔翼した者もやはり無冠の浪人・杉山茂丸であった。

 この観点に立てば、従来の学校歴史が説くごとく、薩長藩閥が日本の政治を専断的に主導したとは到底考えられない。そこで本稿は、この政治勢力の全体像を明らかにすべく、本年六月号(第四十二回)を以て実質的に第三部に入った。本月稿はその三回目で、前月に続いて杉山茂丸を論じていく。

 さて、前月稿に述べた経緯、すなわち茂丸が元老院議官・安場保和に福岡県令就任を請うた処、安場が上司・山田顕義の承諾を条件にしたので、後藤象二郎の紹介で司法大臣・山田顕義に会う処までは良いとしても、安場と玄洋社の結託を警戒していた山田が、茂丸の弁舌に屈して終に安場の福岡県令就任を認めたとするに至っては、皮相どころか苦し紛れのコジツケと観るしかない。弘化元年(一八四四)年生まれの長州藩士・山田顕義は、戊辰役で賞典禄六百石を受けた功臣で、明治七年に陸軍少将、明治十二年参議に就き、以後各省の卿を歴任して十七年の華族令で伯爵に叙せられ、当時は司法大臣であった。安場は天保六年生まれで、山田より九歳年上だが、戊辰役の賞典金は三百両の中級功臣で、福島県令などを経て、時に元老院議官、男爵叙爵も明治二十九年である。政界の実力は山田とは段違いであるが、山田の部下というわけではない。

 炭鉱払い下げの筋書きを書いた策士が誰か、いまだ明確ではないが明治史上最大の実力者であることは間違いない。その策士は玄洋社育成を実行に移すに際し、長州人であるが山縣有朋と反目して政界で特殊な位置にいた山田参議の支持を取り付けたわけで、長州派の分断を図る存念であろう。安場は、子分の熊本県学務課長・八重野範三郎から佐々友房を通して玄洋社の内情を聞き、福岡県令としての己の職責を理解し、納得したから県令を受けたので、山田の指示に従ったのではない。ともかく、安場保和は明治十九年二月、炭鉱払い下げ策を実行すべく福岡県令に就いた。
 
 ★京都皇統の密名で動くもうひとりの人物・佐々友房
 
 戦国武将・佐々成正の子孫と称した佐々友房は、肥後藩士として肥後勤皇党に属した。西南戦争で西郷軍に加わって入獄したが、出獄後は教育界に入り、国家主義を鼓吹する学校を創立して明治一五年に済々黌と改称、国家有為の人材を多数輩出してきたのが現在の*熊本県立済々黌高校である。国権主義に立つ佐々は、二十二年九月熊本国権党を組織し、第二回帝国議会が開設されると衆議院議員に立候補して当選を果たす。友房の子息・弘雄も参院議員で、孫にも参院議員・紀平梯子と警察官僚・佐々友房がいるが、紀平悌子が市民運動政治家・市川房江の後継者となったのは興味深い。(*姜尚中の出身校でもある。)

 友房こそはどうみても只者でない。そもそも熊本国権党の実情は玄洋社の友好団体で、肥後藩士出身の安場もこれに与していた。友房が茂丸に対して行ったことは、玄洋社の実質社長・頭山を紹介して入社に導き、筑豊炭田の玄洋社への払い下げのために安場を県令に就けさせ、熊本人の内閣書記官長・井上毅(のち法制局長官・子爵)を紹介したことなどである。茂丸の主要人脈作りに、佐々ががくも勤しんだのは、京都皇統の密命を直接的に受けたものと視て良いであろう。

 辰吉郎は井上馨の兄・重倉の五男が死んだので、身代わりとして入籍したもので、戸籍上は明治二十四年生まれとなったらしい。玄洋社に預けられた辰吉郎が長州人の籍に入るのは不可解だが、重倉は玄洋社員と仄聞するし、長州三巨頭の中でも井上馨は京都皇統と密接な関係にあった。ともかく安場福岡県令の申請で、四か月後の十九年六月総理大臣・伊藤博文から九州民営鉄道敷設の許可が下りた。黒幕の茂丸は時に二十三歳であった。

 同年八月、清国北洋艦隊が示威航海のため長崎に寄港したが、その水兵が長崎市内で軍威を嵩にきて暴行を働き、之を眼前にした国民間に国権意識が沸騰した。元来反藩閥の民権主義団体であった玄洋社が国権主義に転じたのはこの事件が契機で、人権の前にまず国権の確立をと謂う訳で、熊本国権党もその流れである。

 因みに、軍事力が充実した時に対外暴挙に出るのは中華国家の通例で、爾来百二十年経った平成二十年代の今日その虞が再来しつつあるが、これに応じてわが国内でも国権意識が昂揚するのは当然で、となれば、「対華事勿れ主義」を標榜する現政権党も、党内に国権派が台頭して分裂の危機に曝され、現状のように選挙中心主義と政権争奪ゴッコに終始してはおられまい。間もなく国家意識を主軸にした大連立時代の到来が予測される所以である。
 
 ★井上馨を狙った者、その命を救った者
 
 明治二十年三月、旧藩主・黒田長淋の薨去により上京した頭山満に会った茂丸は、国家主義に転じた玄洋社の政治活動資金として炭鉱鉱区払い下げを切り出し、躊躇する頭山を説得して承諾させる。堀政昭『杉山茂丸伝』によると、頭山を納得させた茂丸は上京中の安場福岡県令を訪ね、さらに農商務大臣・井上馨に相談して、海軍予備炭田として閉鎖中の筑豊炭田の払い下げを要請した。玄洋社の炭鉱払い下げの詳細は本稿の主旨でなく時期を調べていないが、井上馨は十八年から二十年九月まで外務人臣で、その後は宮中顧問官を経て二十一年七月に農商務人臣に就く。つまり、茂丸が訪ねた時には井上は外相であったが、井上本人が炭鉱払い下げの筋書きに関わっていたから訪ねたのである。この年、堀川御所から博多に移る辰吉郎が、後に井上馨の兄・重倉の戸籍に入籍したことを視ても、京都皇統と井上馨の間には深い関係が在ったと観るしかない。

 外相として不平等条約の改正を担った井上は、欧化主義を唱えて鹿鳴館外交を展開していたが、改正案に外国人判事登用を盛り込んだのを政府法律顧問のボアソナードに暴露され、農商務人臣・谷干城の猛烈な反対に遭った。茂丸は、井上馨の改正案に反対して下野した谷干城を牛込邸に訪ね、本人に向かって異議を述べた。堀前掲書は、その時期を、巻末年譜には明治二十年、本文では二十二年とするが、おそらく後者が正しいと思う。

 維新の功臣・谷干城は、明治四年薩長土三藩の御親兵募集に応じて初任陸軍大佐、西南戦役では少将熊本鎮台司令長官として西郷軍を撃退、勇名を馳せて中将に登り、十七年の華族令で子爵に叙せられた当時の政界の重鎮である。京都皇統を支援する勢力には土佐派も加わっていて、谷干城による井上の条約改正案反対も玄洋社と軌を一にするものであったが、茂丸は「自身の代案を示せ」と、谷の急所を突いた。無冠の茂丸が子爵陸軍中将の谷に面悟して異議を呈したのは、谷が必ず応対するとの確信が有ったからで、茂丸の黒田長溥の遺児たる素性が谷に伝わっていたと観るしかない。堀前掲書を始め巷間に茂丸伝記は多いが、ひたすら茂丸の野人振りを強調するものばかりで、なぜ茂丸に限って謂うような野人振りが当時の支配層に通じたのかを説明したものは一つもない。いかに野人を気取っても、支配層が相手しなければ世に顕れないのは当然で、茂丸の隠れた貴種性を補助線にして初めて茂丸の謎が解けるのである。

 二十年七月二十六日の谷子爵の反対意見書呈出と閣僚辞任に国民が喝采した反面、井上は国権派壮士から生命を狙われる。谷の辞任後の農商務大臣に就いた井上が、二十一年秋に九州入りした際、玄洋社員・来島恒喜が暗殺を図るが、井上に炭田払い下げの大恩がある頭山は来島を説論して井上を救った。井上辞任後は伊藤博文総理が兼摂していた外相に二十一年二月から大隈重信が就き、条約改正に腐心する。大隈の案が二十二年四月に外紙『ザ・タイムス』に報じられたことから、大隈は十月十八日来島から爆弾を投じられて、片脚を失った。大隈襲撃の背景に茂丸ら玄洋社幹部がいたことは紛れもない事実で、茂丸の末裔や周辺は之を不名誉としているが、政治の本質に関わることであって小市民的道徳律を適用すべき事項ではない。
 
 ★朝鮮知識人と英商と明治陸軍の将星たちと
 
 不平等条約改正は国民の悲願であったが、実現するには結局「力」しかない。そこで、「弱い国と戦って勝ち、その現実を世界に見せつけるこししかない」と茂丸に教えたのは金玉均とともに朝鮮国から亡命していた宋秉峻であった。叩くべき相手は清国で、攻撃の主目的地を奉天として、旅順・大連・威海衛も攻撃対象とすべきことを教えた。清朝にとって発祥地たる満洲の重要性は誰でも思いつくが、宋の発言が満洲の地政学的重要性を意味していたのかが興味を惹く。日・漢・満・露に挟まれた半島国家の伝統的外交策は、時の周辺最強国に阿諛する事大主義であるから、地政学的思考とは往々にして矛盾するが、当時の朝鮮知識人が地政学を体得していたのなら、真に驚くべきことである。

 その地政学こそ、明治二十二年頃から茂丸の思考を規定したものであり、契機は香港との石炭貿易を通じて知り合った英商・★シーワンである。筑豊炭田の石炭は、安場県知事(十九年七月官名変更)が二十二年七月から実施した門司港の整備に因って輸出が可能となり、香港貿易の途が開けた。これより前、茂丸は尾張藩士出身の陸軍少尉・★荒尾精に会う。外国語学校(フランス語)を中退し明治十一年陸軍教導団に入った荒尾は、成績優秀につき、十三年一月陸軍士官学校旧制五期に入学、十五年二月に少尉に任官した。下士官を養成する陸軍教導団長は、八年二月以来十二年二月まで実に三年間も高島鞆之助で、高島大佐は十年二月長崎警備隊指揮官を兼務し、西南戦役に際しては少将別働第一旅団司令長官となり、十月に凱旋する。その後、欧州出張に出る十二年二月までの一年余は教導団長専任であったが、十三年三月帰朝して熊本鎮台司令長官に就任するまで、ずっと教導団長の職にあった。荒尾の教導団時代は十一年から十二年十月で、前半は高島の団長専任時代であったから、欧州出張前に高島が荒尾の士官学校進学を決めたとの推測は充分成立つ。

 歩兵十三連隊付少尉の荒尾は、十八年参謀本部出仕を命じられ、清国担当の軍事探偵になった。茂丸が参謀本部付軍事探偵の荒尾に会うのは十八、九年の頃で、場所は大阪であった。大阪鎮台司令官は高島鞆之助少将で、この出遭いには高島の関与が考えられる。佐々友房が茂丸に頭山を紹介したのと軌を一にするもので、勿論偶然ではない。十九年に清国出張を命じられた荒尾中尉は、眼薬「精水」で知られる岸田吟香が上海で開いていた薬局「楽善堂支店」で働き、岸田の信認を受けて漢口に楽善堂支店を開き、参謀本部から命じられた特別任務の活動拠点とした。

 二十一年、ロシアがシベリア鉄道敷設計画を発表したのを観た荒尾は、ロシアの南下を防ぐために清国との連携が肝要と考え、二十二年四月に帰朝して、貿易を通じて日清間の連携を強める主旨で、日清貿易研究所の設立を全国で呼び掛けた。荒尾が博多を訪れたのは二十二年十二月二十ー日で、その頃、茂丸は筑豊石炭の輸出商談のために香港に向かっていた。既に、荒尾が日清貿易研究所を上海に設立する資金を、茂丸が石炭貿易の利益で支援する約定が出来ており、荒尾は、清国商人・譚蘭亭の紹介で知った英商・シーワンを、茂丸の石炭貿易の案内役として紹介し、シーワンがイギリス船ベンラワー号を茂丸に貸すことで茂丸の石炭貿易が始まる。シーワンの正体をまだ知らぬが、海洋勢力の本宗たる在英ワンワールドの世界戦略を茂丸に教授したことからして、これも只者でない。

 ここら辺りの茂丸を取り巻く人脈の形成と進展は、偶然の累積では到底説明できることでなく、系統立った策略の下に動いている、その策源地が京都皇統に在るのは確かで、辰吉郎を博多に移したのも同じ策士であるが、問題はそれが誰かである。薩摩ワンワールドの初代総長・吉井友実は、当時宮内次官兼枢密顧問官で、二代目総長を第四師団長(大阪鎮台司令長官を改称)高島鞆之助中将に譲ろうとしていた。上述の荒尾と茂丸の出遭いの一件からしても、薩摩ワンワールドが策源地と解すると、符節の合うことが多い。
 
 ★あの高島鞆之助が孫文を支援した陰に玄洋社あり
 
 茂丸の石炭貿易による利益を以て二十三年九月に開所した上海の日清貿易研究所は、全くの国事工作機関であった。四年後の日清戦争の際、山崎・鐘崎・藤崎の三人の所員が玄洋社の声援を受けて満洲に渡り、金州で清国兵に捉われて軍事探偵として処刑されることでも明らかである。国事工作の資金を私的貿易の益金で賄うのは世の条理に反する。通常は政商なる者が存在し、国家から利権を貰う見返りに私的利益の中から国事資金を提供したり、乃至は国事活動そのものを行う。ところが政商にも真仮の二種あり、真の政商は究極の目的を財貨の私的穫得におき、国事をそのための手段とするもので、大倉喜八郎これである。仮の政商はこれに反し、真の目的を国事として、非合法ないし極秘活動における政府の関与を隠蔽するために私営事業を装うもので、代償として国家から無形の援助を受ける。この観点からすると、茂丸の石炭輸出事業は正に後者である。とすれば茂丸は真の私人
ではなく、本質を在野の国策遂行家と視て浪人政治家と規定すべきである。

 荒尾は明治二十六年年七月に予備役編入、ニ十九年三十九歳で病没するが、日清貿易研究所はその後東亜同文書院に発展し、根津一が院長に
就任する。日清貿易研究所を荒尾と共同運営した根津一は、横浜師範学校から陸軍教導団歩兵科を経て、十一年十月に教導団砲兵科から成績優秀のため陸士旧制第四期砲兵科に進むが、教導団で一年後輩の荒尾も根津を追いかけて陸士旧制第五期の歩兵科に入る。根津が荒尾の親友であったことは、同時に根津が茂丸とも近かったことを示している。

 根津は経歴からしても高島鞆之助の子飼いで、陸軍を去った後も高島の腹心であったと見て良い。明治三十年代から四十年代に掛けて、高島と根津の関係は、『宇都宮太郎日記』に見られる。参謀本部第二部長・宇都宮太郎少将が、高島の家政窮乏を憂いてしばしば東亜同文書院長・根津一に相談しているが、四十四年十二月、宇都宮が根津を訪れたところ、根津は孫文革命党を支援する善隣同志会の創立を図り、その会長に高島鞆之助を仰ぐ所存であった。

 『日本の下層社会』で知られる横山源之助は、その著『怪物伝』で頭山満を評し、「その交際してゐる人物を調べて見ると、平岡浩太郎、金子元三郎とも交れば、京橋に三興社を創立して石油事業に関係してゐる杉山茂丸や、北海道に幅を利かせてゐる結城寅五郎の如きは、曾て彼の恩恵を受けた門下生。かといふと、大井憲太郎、岡本柳之助、遠藤秀景のやうな物騒な連中とも交際(つきあ)ってゐる。子爵高島鞆之助とも懇意であれば、谷干城子爵とも睨懇、故人児玉参謀長とも親しければ、金子男爵(金子堅太郎)とも知り合ってゐる。特に故近衛公爵とは最も親かったやうである」とし、高島との関係を特筆した。

 高島が孫文革命を支援したことも玄洋社との密接な関係を示唆するもので、大正二年、第二革命に失敗した孫文の日本亡命を首相・山本権兵衛に認めさせたのは高島であった。孫文は赤坂の頭山満邸の隣家に匿われたが、高島邸に保護されたことも伝わっていて、高島の神戸別邸を用いた可能性もあるとされている(『大阪偕行社附属小学校物語』)。

 こうして見ると、其処此処に玄洋社と薩摩ワンワールドの関係が窺えるのであるが、これを指摘した史家を未だ全く観ないのは、一体なぜなのか? 
 
                        <了>。
 





●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)                落合莞爾

 -光格帝の御事跡と閉院宮系天皇子孫=京都皇統の経綸
 
 ★世襲親王家閑院宮と「光格王朝」の誕生 
 
 近来「江戸の幕末ないし日本の開国は、実は光格帝に始まった」との所説を耳にすることが多い。先年も、竹田恒泰慶応大学講師が、講演でその事を強調していた。竹田講師は竹田恒和日本オリンピック委員会会長の長男で、伏見宮皇統に属する北白川能仁親王の四代孫に当たる。以下では、伏見宮皇統から分岐した閉院宮皇統から出て「光格王朝」を開始した光格天皇の御事績が幕末の発端をもたらした所以と、その末裔で維前後の日本を経綸した「京都皇統」について述べることとする。

 前月稿(「手記47」)で堀川辰吉郎と松下トヨノを京都皇統と論じたが、「京都皇統」とはいうまでもなく造語である。そもそも、わが皇室の根本観念をなす「万世一系」は、必ずしも特定の血統に拘泥したものではなく、各時代において皇位を保持した系統が時宜に応じて交代しながら、連綿として皇室を継承してきたことを意味するもので、皇統のこうした交代は恰も西欧でいう王朝交代に似た外観を呈しているが、彼我の差異を論じるのは本稿の主意でない。ついでにいうと、大和民族の根本観念たる「単一民族」というのも、縄文系・倭系・ツングース騎馬人系はいうに及ばず、漢系・百済系、さらにはポルトガル系タカスなどの渡来諸民族の混合体であって、しかも完全な混血には至っていないのに、敢えて単一民族と観念したものである。

 さて、ここに「京都皇統」とは、百十九代光格帝(在位安永八【一七七九】年~文化十四【一八一七】年)に始まり、仁孝帝を経て孝明帝(在位弘化三【一八四六】年~慶応二【一八六六】年)に至る三代の閉院宮系天皇の子孫を指すもので、其の所以を陳べるに、百一三代東山帝の御子で百十四代中御門帝の同母弟の直仁親王が宝歴七(一七一〇)年、世襲親王家として新たに閑院宮を創立したことに始まる。これは将来、直系皇嗣が途絶える場合に備えたもので、新井白石の建言というのは作り話との説もあるが、ともかく霊元上皇により、直仁親王に対して閉院宮号と所領壱千石が与えられた。

 これが功を奏するのは七十年後で、安永八(一七七九)年東山帝の四代孫たる百十八代後桃園帝が二十二歳で夭折して、皇嗣選定の必要が生まれた。皇嗣の候補は、皇統の予備として設けられた世襲親王家に求める外なく、伏見宮家の貞敬(一七七六年生まれ)と閉院宮の二代目典仁親王の第一皇子美仁(一七五八年生まれ)、及びその弟の祐宮師仁(一七七一年生まれ)の三親王に絞られたが、先帝の遺児で生まれたばかりの欣子内親王の女婿となるために独身が条件とされて、まず美仁親王が除かれた。

 残る二人の内、後桜町上皇(百十七代桜町女帝)と前関白の近衛内前は貞敬親王を推したが、いかに世襲親王家の筆頭とはいえ、伏見宮家は現皇統とは既に十数代を隔たっていた。十日に亘る議論の末、関白九条尚実の推す師仁親王が、先帝の七親等(百十六代桃園帝及び後桜町女帝とは六親等)で現皇統と血統が最も近いことから、先帝の猶子となって皇統を継いだ。これすなわち光格帝で、遡れば伏見宮貞成親王に至る北朝血統であるが、世襲親王家の閑院宮から出たことで、ここに「光格王朝」の始祖と視るのである。初代閑院宮直仁親王は東山帝の御子で中御門帝の弟であるが、その御子の二代目典仁親王は、光格天皇の父として今日では慶光天皇と呼ばれるから、以後光格帝・仁孝帝・孝明帝と続くこの系統を「閑院宮皇統」と称して差し支えはない。 
 
 ★幕統を総覧した徳川家斉  関白職を独占した鷹司家 
 
 孝明帝の後は維新により政体が一新、東京遷都により皇室制度に著しい改変がもたらされ、「万世一系」の初代を明治天皇とする明治憲法(滝川幸辰博士説)が欽定されたが、南北朝正閏問題が論じられるや明治大帝は南朝正系を勅裁されたのに鑑みると明治大帝を王朝の始祖と視るのが至当である。以後、大正・昭和を経て今上に及ぶ現皇統を「東京皇室」と称えるが適切と思うが、この辺を論ずるのは別の機会にする。としもかく本稿の主張は、明治維新以後、孝明帝の直系が意図的に世に隠れ、京都堀川御所に潜んで秘かに国事に関わった秘事である。閑院宮皇統の本流とも視るべきこの系統を、「東京皇室」との対比で「京都皇統」と呼ぶのが適切であろうと思う。

 さて「京都皇統」の事績を一覧すると、光格天皇の父ゆえ明治以後慶光天皇の尊号で呼ばれる二代閑院宮の五歳下の同母妹の五十宮倫子内親王は、宝暦四(一七五四)年に十代将軍家治の正室になった。東山天皇の孫で兄が慶光天皇、甥が光格天皇の倫子内親王と将軍家治の結婚は、後講釈ではあるが公武合体と謂うも差し支えない縁組であったが、男児に恵まれぬ内に、五十宮が明和八(一七七一)年三十四歳を以て薨去され、閑院宮系皇統の血は結局幕統に入らなかった。

 倫子内親王と同年の異母弟淳宮は、寛保三(一七四三)年に摂関家の鷹司家を継ぎ、鷹司輔平となる。その曾孫の輔煕が明治五(一八七二)年に隠居、家督を九条家から入った煕通に譲るまでの三十年もの間、鷹司家は実質的に閑院宮系皇統の一支流であった。

 安永八(一七七九)年九歳で皇位を継いだ光格天皇は三十七年間在位して、文化十四(一八一七)年に十七歳の第四皇子仁孝天皇に譲位したが、以後も上皇として禁裏に君臨し、天保十一(一八四〇)年に六十九歳で崩御した。即位より通算して六十年に亘り、真に王朝創始者に相応しい生命力を示したが、年数だけでなく顕著な事績を数多く残した。

 光格帝が即位した時の、叔母の夫の徳川家治が幕府将軍であったが、光格帝の在位八年目の天明六(一七八六)年に他界した。世子家基が夭折していたので、幕統予備の御三卿たる一橋家から家斉が入って翌年十一代将軍に就き、五十年後の天保八(一八三七)年に世子家慶に譲った後も大御所政治を布き、天保十二(一八四一)年に六十九歳で没するまで、実に五十四年間も幕政を総覧した家斉の事績は、正に政体の「家斉王朝」の創始者に相応しく、光格天皇の御事績に対応するものと謂えよう。

 家斉が幕統を継いだ天明七(一七八七)年、慶光天皇の実弟鷹司輔平(一七三九~一八一三年)が関白に就き、寛政三(一七九一)年まで十四年に亘り、甥の光格帝を善く輔佐した。輔平の後は四年間だけ一条輝良が関白に就くが、寛政七(一七九五)年には輔平の子鷹司政煕がこれに代り、文化十一(一八一四)年まで十九年間、従兄弟の光格帝を支えた。その後一条忠良が関白に就くが、九年後の文政六(一八二三)年政煕の長男政通に替わり、安政三(一八五六)年九条尚忠に譲るまで三十三年に亘って関白に就く。光格上皇と仁孝天皇を輔佐した鷹司政通は、孝明天皇の信頼も厚かった。かくて、一七八七年から一八五六年までの七十年の内、閑院宮系鷹司家が三代に亘り五十七年もの間、関白職を独占したのである。 
 
 ★「明治皇室」を監督する「京都皇統」の重要人物 
 
 さらに鷹司家は、家格が摂関家(五摂家)に継ぐ清華家(九清華)の一つ徳大寺家に入って、閑院宮系の活動領域を広めた。すなわち、輔平の子で政煕の弟の実堅が徳大寺の養子になり、さらに輔平の孫政通の子の公純が大叔父・徳大寺実堅の養子になる。徳大寺実堅は仁孝帝の信認が厚く、後述の学問所(京都学習院)設置の意向を受けて、武家伝奏として幕府と交渉した。実堅の後を継ぎ、多事多端の幕末に禁裏の重責を担った徳大寺公純の三人の男子が、「東京皇室」の侍従長兼宮内卿に就いた徳大寺実則、内閣総理大臣・西園寺公望、及び住友財閥の当主・住友吉左衛門友純となる。この三人は徳大寺公純→鷹司政通→鷹司政煕→鷹司輔平→閑院宮直仁親王→東山天皇と、男系で続く閑院宮皇統の六代目で、「京都皇統」と極めて近い関係にある。

 かくて光格帝即位以来幕末までの九十年間、閑院宮系皇統が帝位と関白職をほぼ独占して名実ともに御所を統御したが、明治四(一八七一)年に徳大寺実則が侍従長兼宮内卿に就き(明治二十四年内大臣に異動)、明治大帝の崩御まで常に近侍したのは偶然の人事ではない。思うにこの人事の真の目的は、世に隠れた「京都皇統」の秘事を守ることにあり、有体に言えば、「京都皇統」の立場で「明治皇室」を監督する枢機の位置に徳大寺実則を充てたものと考えられる。

 明治大帝崩御により徳大寺実則は辞任、後を受けて大正天皇の侍従長になったのは鷹司煕通であった。陸士旧制二期卒で、早くから東宮武官・侍従武官を歴任して陸軍少将に昇った煕通は、関白九条尚忠の子で鷹司輔煕の養子となったが、実は徳大寺実則の女婿でもあるから、この人事にも「京都皇統」との関係を見取るべきであろう。

 光格天皇の御生母・大江磐代は、鳥取藩の陪臣(家老荒尾氏の家臣)岩室宗賢と大鉄屋の娘オリンの間に、延享元(一七四四)年に生まれた。父方岩室家の先祖は近江国甲賀郡岩室郷の地頭で地名を苗字にしたが、本姓は大江である。母の生家は「大鉄屋」という鉄問屋で、豪商淀屋の系類と謂われ、姓は堀尾氏との説があるが未詳である。父宗賢が浪人し、上京して町医者となったが、その家格は天皇生母としては例外的な低さである。

 幼名をツルと称した磐代は、早くから橘姓を名乗り、中御門天皇の皇女成子内親王の侍女となった。成子内親王が閑院宮典仁親王に嫁ぐ時、従いて閑院宮家に入り、典仁親王の寵愛を受けて三人の皇子を儲けた。磐代が産んだ長男が第六皇子師仁親王すなわち光格天皇、次男が第七皇子盈仁入道親王で聖護院門跡を継ぎ、一人は夭折した。

続く。
 




 
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)-1  ◆落合莞爾
 
 ★辺見勇彦、牧口辺見、出口清吉、日野強 大陸で暗躍する「草」たち

 ★馬賊「東亜義軍」を率い大陸を疾駆した辺見勇彦

 前月号で触れた明治三十三年八月十三日付の『京都日出新聞』の記事中、従軍記者の話に「軍事探偵としては、王文泰に劣らないのがもう一人いる」とあるのは辺見勇彦であろう。辺見勇彦の父・辺見十郎太★(嘉永二年~明治十年)は、西郷隆盛・大久保利通・高島鞆之助らと同じく鹿児島城下で下級武士の住んだ三方限に生まれた。十郎太は性剽悍で、戊辰役では十八歳で小隊長となり、戦功を挙げて 名を馳せた。四尺四寸の大刀を自在に揮い、身長六尺、顎髭は悉く赤かったとなれば、他の薩摩功臣と同じくポルトガル鉄砲鍛冶が混じった血筋で、日本版マカイエンサと見て良い。私淑する大西郷に従って上京した十郎太は、四年七月御親兵に応じて初任大尉、六年に職務上の失敗で免官された後、帰郷する西郷に伴して鹿児島に戻る。

 ★ブロガー註:辺見十郎太については、昔こんなエピソードを読んだ。

 『明治の群像3』-明治の内乱 谷川健一編 三一書房 1968年刊 
 コラム・15(p209)<辺見十郎太とひえもん取り>というもので、以下のようにあった。

 作家の里見弴氏が〔ひえもん取り〕のことを書いておられる。お父さんが薩摩藩士であったから聞かれたのであろう。これは藩の重罪人を近郊の境瀬戸の刑場で処刑するときに屈強の若侍達が近くに居て、処刑されると罪人のところに飛んで行って耳、鼻などにかじりついて試し斬りの順番を得るのである。似たようなことを学生時代に西郷隆盛以下を祀る南洲神社の例祭の折、(九月廿四日の城山落城の日)、薩軍生残りの古老から聞いた。それによると辺見さんは薩軍随一の豪傑で、味方が退却すると逃げないように斬り殺したといわれているが、実際はそれより乱暴だった。逃げたものを斬っただけでなくその生き肝を私等部下に食べさせて、お前達も逃げるとこのようになるぞといわれたのにはびっくりしたものだ。辺見さんはそのような気性のはげしい人であったとその従軍した古老は語ったという。ある友人から聞いた辺見十郎太の一面である。

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 この機会に次のコラムも紹介しておこう。

 17 大山綱良と遺書

 鹿児島県令大山綱良は長崎裁判所に送られ、城山落城の数日後の九月三十日処刑された。この大山が獄の誰かの便で家族に送った小さな字で言いた紙片を大きな紙にはりつけてあるのが遺言である。

 「墓所 右松原神社境内エ御建立給わるべし。但し世の治て後然るべし。
 沖ノ村屋敷小クラ建立ノ事大松の下へ」

 この大松の下に墓碑の図を描いているが、この松には蝉も止っている。死を前にして落着いた心境であろう。
 「老体の姉三人これあり候間藤安よリ受取の内にてもお郡合を以て金二百円宛直に御渡形見に御送り下さるべし。」

 年老いた姉達を大事にする考えが形見わけのことを遺言している。
 「五十年来、世に生れ生涯苦心の身終にかかる身に終り候儀数度の戦場怨霊の報いと何れも御明らめなさるべく候、只々死に近き遺言を差送り候也」

 大山のような剛胆な大物であってもこのようになったのは数度の戦場で殺した怨霊の報いと考えているようである。これは人斬り半次郎といわれた中村半次郎が夜怨霊にうなされていたというのと一脈通ずるものがあるようだ。
 (鹿児島市立美術館長・坂元盛愛氏御教示による)

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 その〔人斬り半次郎〕桐野についても。

 14 桐野利秋の「京在日記」

 これまで「教養がひくい」「自分の名がやっと』書けるほどの あきめくらであったと」いわれる桐野利秋の曰記が上の写真で ある。字もたしかであるし、曰記中に和歌や漢詩なども、もの しているのである。また彼の画いた絵もあるが、多趣味な人物 であったようだ。幕末期の武士、明治の軍人としては普通以下 の教養ではないと思う。また曰記は慶応三年の九月朔日から十二月十曰までの約百曰間のものであるが内容も興味深い。信州上田藩士赤松小三郎は薩藩に招かれ英式兵学を教えていたが、
 慶応三年九月三日京都において暗殺されたが、一説に薩藩士の 手に掛るという(『鹿児島県史』)とあるが「京在曰記」の九月 三曰の条に[上田藩赤松小三郎此者洋学を治候者にて去春よリ 御屋敷に御頼に相成り・・・今度帰国之暇申出候に付段々探索方 に及候処弥幕奸の由分明にて」とあり、途中行き会ったので田代氏と追い掛けて遂に天誅を加えている。この曰記で桐野がはっきり暗殺したことがわかる。人斬り半次郎と呼ばれる通りである。日記には彼と連絡のあった人名が多く出てくるが、十一月十曰土州の坂本竜馬に行き逢っている。十八曰にはその坂本が暗殺されたことを聞いて墓参に駈けつけているなど、時期が慶応三年の大政奉還、王政復古の大号令の直前であるだけに興味深い。

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 寄り道はこの辺にして、吉薗周蔵の手記(29) に戻って、 続ける。                   

 辺見勇彦はその(十郎太)の長男で西南役の最中に生まれた。昭和六年刊の自著『辺見勇彦馬賊奮闘史』に身上の記述があるらしいが、目下未読のため、以下は推察を以て進め、後日必要に応じて補正したい。勇彦は陸士の入試に落ちて軍人を諦め、日清戦役末期に満洲に渡ったというが、明治十年生まれの年代は陸士新制(士官候補)九期に該当し、荒木貞夫・真崎甚三郎・本庄繁・阿部信行ら大将六人を輩出した当たり年である。幼年学校ならば二十六年に入校、中学年ならば二十八年八月の陸士入試に合格せねばならぬ。日清戦争は二十八年四月に講和したが、その後に台湾土匪の平定が本格化したから、台湾副総督・高島鞆之助が匪賊掃討を終えて帰国した二十八年十二月を以て実質的な終戦と見ることもできる。これからすると、辺見勇彦は二十八年八月の陸士入試に失敗して、間もなく満洲に渡ったものであろう。

 高島鞆之助の腹心宇都宮太郎(後に陸軍大将)が遺した『宇都宮太郎日記』の明治四三年二月二十八日条に、「満州長春にて実業に従事せる辺見勇彦来衙(元と高島中将の書生たりしことあり。二十七・八年戦役には馬賊を率て功あり。目下は長春に賭場を開き成功、何か御用に立ちたしとの申出なり)」との記載がある。高島鞆之助は二十五年陸相を辞任して以来、枢密顧問官の閑職に在った。実際は薩摩ワンワールドの総長に就いたがそれは世間極秘であった。ところが、二十八年八月二十一日に突如現役中将に復帰し、台湾副総督に補せられて渡台する。高島はそれまで勇彦を書
生に置いて受験準備をさせていたが、八月の入試に勇彦は落ちた。勇彦が高島の後に上原勇作の書生になったというのも、高島が台湾赴任にあたり勇彦の身柄を腹心上原中佐に預けたのであろう。日清戦役で第一軍参謀副長を務めた上原は二十八年五月に凱旋、その後休養の体であったが、二十九年二月から伏見宮貞愛親王のロシア皇帝戴冠式参列に随行し、八月まで渡欧した。ともかく勇彦は、二十八、九年ころに上原の書生を辞めて渡満したものらしい。

 陸士不合格で軍人嫌いになった勇彦は、満蒙を放浪して地誌・地要を極め、緑林(馬賊)に混じって頭目となった。正規軍人の志を捨てた勇彦に馬賊の道を勧めたのは、高島か上原と見て良い。彼らは、対露戦争の際は満蒙における後方撹乱が必要で、それには馬賊の活用が必須と考えていたからである。因みに、インターネットで検索した処、北海道某学校の舎監日記に、「明治三十二単一月十四日、辺見勇彦(鹿児島の人 土木科一年入舎」と出ているようだが、これは、勇彦が諜者の表看板として土木技師の肩書を取るために、一時的に籍を置いたものであろう。因みに、熊本高等工業の受験を放棄した吉薗周蔵も、陸軍大臣・上原勇作の命令で大正九年から東亜鉄道学校土木科に形だけ籍を置いたが、目的は、土木技師だと外国に入国する理由が立つからである。明治二十八年当時の辺見勇彦と大正元年の吉薗周蔵の立場は、良く似ている。

 近衛上等兵・出口清吉は二十八年夏、入院中の台湾病院を秘かに抜け出し、或いは帰国の船上で包帯で巻かれて水葬されたと伝えられたが、五年後の満洲で北清事変の功労者として、〔元気の良いチャン〕王文泰として『京都日出新聞』の従軍記者の前に現れた。清吉は満洲に渡り、身を緑林に投じた五年間に馬賊仲間の信頼を得たのである。清吉が台湾征討軍を抜けたのは、台湾征討軍司令官・高島鞆之助の指示と見るべきであろう。前掲『京都日出新聞』の記事中、「軍事探偵としては、王文泰に劣らないのがもう一人」とは辺見勇彦と見る以外にない。勇彦と清吉は同じ頃に、高島の筋により特務の道に入ったものと考えられる。

 日露戦争に際し、辺見勇彦は江崙波の名で馬賊集団「東亜義軍」を率いてロシア軍を悩ますが、正式身分は陸軍軍属で、橋口勇馬の指揮下にあった。宇都宮太郎の親友で共に高島の腹心を自任した橋口少佐は三十七年一月清国差遣(諜報)、三十七年二月兼大本営附仰附、七月満洲軍総司令部附、三十八年三月中佐進級、十一月に参謀本部附となる。二月の日露開戦の直前から満洲に渡り、諜報活動に当たって馬賊を指揮していたが、当時の出口清吉は、辺見勇彦と同様馬賊の頭目となり、王文泰ないし別名で橋口少佐の下で活動したのであろう。その馬賊仲間の一人が張作霖だった。 

 ★吉薗周蔵を「親方」とした牧口辺見なる人物の正体

 大正八年十月、上原勇作参謀総長から大連阿片事件の調査を命じられた吉薗周蔵は、知人・布施一の紹介で、辺見と名乗る男を調査員として雇った。

 その男は明治四年、越後国刈羽郡荒浜で倭族(海女)の渡辺ヰネの双子として生まれた。後に創価学会を創った牧口常三郎の双子の兄に当たり、本姓は牧口で、元は山梨で教師をしていたが、辺見勇彦を名乗る友人と土佐で知り合い、日常の交りのうちに薩摩弁を覚えた。ついでに姓も借りた理由は、本名は名乗りたくないのでと弁明したが、特務同士の姓名貸借は通常のことである。吉薗周蔵も、最初の渡欧では久原鉱業土木技師・武田内蔵丞を名乗り、二度目は煙草小売商・小山建一の名を借りるが、一方では吉薗収蔵の名前で誰かが特務活動をしていたわけである。

 布施の説明では、姓は辺見を名乗るが名は分からぬとのことなので、以下では一応「牧口辺見」と呼ぶことにする。周蔵が上原参謀総長に、大連阿片事情の調査は牧口辺見に頼むことにしたいと申告すると、上原が「コノ船二乗セタラ良カ」と世話してくれたのが、大谷光瑞の自家用船であった。船名の「寺丸」はいかにも滑稽と思った周蔵だが、後年牧口辺見から船内に「沈ムデモ南無阿弥陀仏」と者いてあったと聞いて、大いに呆れた。牧口辺見は、阿片の大物運び屋の元樺太長官・平岡定太郎(平岡公威=三島由紀夫の祖父)を追い詰め、大正八年十二月三十一日に満鉄列車内で地元警察に逮捕させたが、相手は何しろ元内務省高官で、すぐに釈放されてしまう。九年五月に上原から満洲出張を命ぜられた周蔵は、「大連(の牧口辺見)が心配だから、ついでに様子を見てくる」と申告した処、上原から「その男は信用できるか?」と念を押された。五月六日に東京を発った周蔵は、上原の手配で、途中五日ほど大連の大谷別邸に滞在する。その際に牧口辺見に会ったものとも思えるが、記録は見つからない。

 一年後の大正元年十月、帰国した牧口辺見は直ちに周蔵に報告に来た。それを四十三枚の聴書にして、上原に提出した処、「これで満足」と褒められ、報奨金を下さることになった(聴書は後年松本清張が小説『神々の乱心』のネタにした)。周蔵は、本人の要求額二千五百円を上原から直接受け取らせようとしたが、本人は上原に会いたがらず、「俺のような人間は、これ以上に上がってはいかんのだ。こうしておれは金になる話は幾らでも掴むから、金にすることは幾らでもできるが、それはやってはいかんのだ」と言い、「平岡の出自は俺と同じさ。そこで平岡を脅かせば、そこそこ金は出すが、それをやっては癖になるから、困った時はすぐやろうと思うようになる。そうなると、俺は悪戻りする事になっちまうから」との説明に、牧口辺見を礼儀正しいと見た周蔵は、今後も使うことにする。

 五月時点では半信半疑だった上原も、今は「ソン男デ良カガ、ウマフヤレ」とすっかり信頼した様子、と周蔵は記している。思うに、かつて辺見勇彦を書生としその後も橋口勇馬の下で「草」として使った上原が、その同県の牧□辺見を知らぬ筈はないのではないか。尤も、牧口辺見は正式軍属でなく、周蔵と同じような独立特務だから、上原の念頭になかったのかも知れぬ。後年のことだが、牧口辺見は「うちらの種は、頭は一人と決まってるんですわ,あの時、言い値の二千五百円をポンと出して下さったあんたが今でもワシの親方や」と明言したが、以後も周蔵を親方と呼び、満洲で椎名悦三郎に雇われながらも、その周辺の事情を時々周蔵に報告してきた。仄聞するところ、辺見勇彦と牧□辺見の接点は、土佐に在った諜者習練所(*前出)らしいが、出口清吉も幼少時代にそこで修業したというから、三人はいわば同窓生である。

  続く。    



天皇家の蓄財(2.26事件の真の闇/補遺)

(2007年02月23日)
 2・26事件について書いたときに、若干皇室の資産に触れた。
 皇室の蓄財に関して、『神々の軍隊』(濱田政彦著)ではこう書かれている。
 「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」
 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。天皇は昭和の大戦争に深く関与した。戦争責任はある。いかにユダヤから仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。
先の引用にもあるように、天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。
 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。
 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。だから諭吉はユダヤ・フリーメースンの会員だったのだ。慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。
 そこを出た財界のトップたちは、記述のように、2・26事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。
 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の47% の株を所持していた。だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。
 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。
 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。
 天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938(昭和13)年12月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 
 多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた。」
 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった。

 さて、再び『神々の軍隊』の続きである。
 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。
 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。」
 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。
 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。
 
 小林良彰の『日本財閥の政策』は、鈴木大拙と出光の関係を書いたときに紹介したが、こんなことも書いている。
 「中島知久平(中島飛行機 ゼロ戦の製造で有名)は、陸軍が(支那事変で)未だ戦線を黄河あたりにまででとどめようとしているとき、閣僚の一人として漢口まで行かねばならないと主張した。もっとも大胆に(中国戦線)拡大を唱えたのは、鐘紡社長津田信吾である。彼は中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説いた。彼の強硬論は鐘紡の高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望を持ったこと、(中略)中国国内に原材料基地を見出さねばならぬという因果関係からくるものであろう。」
 中島知久平が閣僚になって戦争を主張したように、また王子製紙社長の藤原銀治郎は、海軍顧問、商工大臣、国務大臣。軍需大臣を歴任し、その地位を利用して戦争でしこたま儲けたクチである。
 戦後、自民党の大物議員で60年安保時に外相を務めた藤山愛一郎も戦前、大日本製糖社長として、戦争を煽った人物である。彼は台湾での製糖事業を一手に握っていたが、さらに南方と中国南部に製糖工場を広げるべき軍部と結託した人間である。
 こうした三井.三菱以外の中小財閥も、積極的に戦争経済を推進しようと図ったのである。それを最も喜んだのはこれらの会社の大株主だった天皇であった。
 こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。

 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。
 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。






■大本教の系譜:中丸薫と堀川辰吉郎の「誇大妄想」革命
OLGurl=http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1366554
  2006/3/23(木) 07:40
「明治天皇の孫」を自称する中丸薫の本を書店で見かけたことのある人は多いだろう。中丸薫は「国際金融財閥の浸食と洗脳から目を覚ませ!日本精神よ、立ち上がれ!」とハッパをかける威勢のいい「上品な」おばさまである。

旦那さまは、映画俳優の中丸忠雄。『日本の一番長い日』(1967)や『メカゴジラの逆襲』(1975)で見たことがある。テレビでは『キーハンター』(1970~73)、『Gメン’75』(1975)に出ていた、「清潔派」男優だ。(参考:出演映画・TV一覧

さて、本題の中丸薫だが、かつてTVインタビュアーとしてロックフェラー、キッシンジャー、フォード元大統領などを取材した経験があり、イラクのフセイン、リビアのカダフィ、北朝鮮の金日成などと「サシで」会えるという人脈は、凄いものだなあと感心する。

しかしながら「国際政治評論家」としてはあまり信用しない方がよい。

ジャパン・ハンドラーズ:「泥棒作家」が、泥棒国家を論じてはいけない。plagiarismについて。(2006/3/1)
「泥棒国家日本と闇の権力構造」を出した中丸薫が、また陰謀本を出していた。今度は、元公安の菅沼光弘氏との対談。

さらっと読んでみて、唖然とした。前回の著作(フルフォードとの対談)では郵政民営化の部分はSNSIのサイトの文章と私も幾らか下調べを手伝った副島隆彦の本をそのままロジックごと盗用していた中丸女史だが、今度は自分の過去のツーショット写真を載せつつ、きくちゆみ女史から教えて貰ったと思われる「911は陰謀だったビデオ」の紹介、さらにユースタス・マリンズの「カナンの呪い」の黒い貴族の下りをロジックごと剽窃している。

中丸薫の本は4~5冊立ち読みしたことがあり、最近、思うところがあって『泥棒国家日本と闇の権力構造』を日本から取り寄せたが、確かにツギハギ情報ばかりである。ツギハギの剽窃はさておいても、

  • 【p199要約】金丸信と田辺誠が「日本の外交の枠」を超えて、せっかく2兆円の供与を北朝鮮に約束しようとしたのに、アメリカが核開発の衛星写真を見せて、この動きを妨害した。
  • 【p205引用】日本の朝鮮半島占領当時、100万人近くが行方不明になってしまった。そういう人たちの補償はしていないわけです。

    という記述を見ると、お話にならないトンデモさん、ということになる。もちろん彼女としては、「アメリカに毎年16兆円を使い、塩漬けの米国債が300兆円もある」のだから、「北朝鮮に2兆円与えるくらい、平和を思えば何でもない」という理屈ではあるのだが。

    靖国参拝や教科書問題では「中国は死者につばをかける」「中国にハッキリものをいうべき」と強行路線だが、相手が朝鮮半島になると、盧武鉉絶賛で、金正日万歳である。中丸薫の独特の「特定アジア」観はどこから来ているのか。

    ハンギョレ新聞:「私は明治天皇の孫娘」というニセ寸劇(2004/7/29)(韓国語)
     29日、ある市民団体の行事に参加した日本女性が「明治天皇の孫娘」なのかどうかを巡り、物議をかもす一幕があった。
     中丸薫という日本女性は、この日「世界非暴力平和運動連合」(平和運動連合)がソウルで行なった定例記者会見の席上と、3・1運動記念塔前で行なわれた平和宣言式で、自らを「明治天皇の孫娘」と紹介した。
     パク・インソン平和運動連合理事長は「日本の天皇の孫娘が韓国を訪問し、3・1運動記念塔前で非暴力と平和を宣言することが、今回の記念式典の核心である」と述べ、「中丸氏の韓国行きにあたっては駐日韓国大使が同行し、李明博ソウル市長が平和宣言式に参加する」とつけ加えた。<中略>
     これに対して、在韓日本大使館は「宮内庁に問い合わせた結果、皇籍にそんな名前の女性はいなかった」「彼女は明治天皇の孫娘ではない」という公式見解を明らかにした。一方、駐日韓国大使館も「大使が同行した事実はない」ことを明らかにし、李明博ソウル市長はこの時間に執務室にいたことが確認された。
     キム前賞勲局長は「皇室の孫娘であることを直接確認できなかったが、皇族がこのような行事に参加することに対して、日本国内の世論を考慮して、日本大使館が嘘つくこともあるのではないか」と語った。
     報道陣の確認作業は続く中で、パク理事長は「正室の子孫ではなく、いままで明かされなかった皇室の孫娘だ」とし、「日本で記者会見を開き、本当の孫娘であることを明らかにする」と語った。
    (訳はWeb翻訳にヒロさんが手直し。ハングル専門家のチェック求む)

    中丸薫の最大の売り物は「明治天皇の孫娘」という点である。「日本の皇族」が「駐日韓国大使の同行」で「3・1運動記念塔」に駆けつけてくれるのだから、韓国の某勢力にとってみれば利用価値満点である。「日本で記者会見を開く」と豪語しているが、そんな記者会見など開けるわけもない。

    中丸薫は「天皇は100%朝鮮起源」を主張し、「宮内庁はアメリカの巣窟」であり、「韓国は米国支配から脱した模範生」と純粋に信じている人なのだ。

    帝國電網省喫茶室:過去ログ66(2004.11.1~11.30)
    投稿者:はる  (2004/11/8)
     先日、宮内庁宛に下記問い合わせをしたところ、返事をいただきました。
     「御迷惑な質問かもしれませんが、“中丸薫”氏という方が“明治天皇の孫”を名乗っておりますが、これは事実なのでしょうか?是非、御返事をいただきたくお願いいたします。」
    宮内庁からの回答
     「お尋ねの件につきましてそのような事実はございません。 宮内庁広報係(電話03-3213-1111(代表))」
     下世話(げせわ)な質問にも関わらず、きちんと回答をもらえるなんて、ちょっと感激です。

    宮内庁に「電突」をする人もいるようだが、ハンギョレ新聞と結果は同じである。彼女の父親・堀川辰吉郎が、明治天皇の子供という可能性はあり得るのだろうか。

    ウィキペディア:堀川辰吉郎
    大アジア主義者。明治天皇と千種任子の間の隠し子とも噂された怪人物(後述の中丸薫がこれを根拠に自分を“落胤”と主張)。ただし堀川自身はその噂を否定していた。井上馨と京都の芸者の間にできた息子ともいわれ、戸籍上は井上馨の兄・重倉の五男

    帝國電網省喫茶室:過去ログ66(2004.11.1~11.30)
    投稿者:八神邦建 2004/11/5
     彼女の父親の堀川辰吉郎って人は、生涯、日本じゅうに数え切れない女をつくって、子供を生ませて、父親の責務をまったく果たさなかったと、昭和二十年代の関係新聞記事や雑誌インタビューに書いてありました。
     手元にある資料「天皇の伝説」(メディアワークス・1997年)P74-75には、こんなことがマンガの形で面白おかしく書いてあります。
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    ★中丸薫の手記によれば、「祖母の権典侍(ごんのてんじ:天皇のお付きの女官) 千草任子(ちぐさ・ことこ)」が大奥の争いに敗れて宮廷を追われ、京都堀川御所で生んだのが、父・堀川辰吉郎。それで、辰吉郎が20歳の時、千草任子は病没したといいます。

     ところが、千草任子に関する事実はこうです。

    1. 名前は「千種」任子であって、「千草」任子ではない。
    2. 宮廷を追われたという事実はなく、69歳になるまでお仕えしていた。
    3. その後、お仕えを辞めて移ったのは京都の堀川御所ではなく東京は新宿区砂土原町。
    4. 辰吉郎20歳のとき病没したというが、それが本当なら任子は43歳で亡くなったことになる(辰吉郎は明治10年生まれ)。しかし、実際には88歳の長寿を保って亡くなっている(報道や墓地で確認済)。

    ★また、「歴史と旅・特集:明治天皇といふ人」(秋田書店2001年12月)なるムック本があります。この中に「明治天皇のお側の女性たち」(森まゆみ)という記事があり、千種任子についてこう書いてあります。(P67-71)

    *「権典侍は、天皇の身の回りの世話、風呂での背中を流したりする役で、天皇の側室であり、化粧料150円が別に与えられた。千種任子(ちぐさ・ことこ)は(中略)のちに天皇の側に侍(はべ)り権典侍となったと思われる」
    *「(明治天皇との間に、天皇から見て)三女・韻子<明治14年>と四女・章子<明治16年>を生んだが(中略)二人ともそれぞれ2歳1カ月、7カ月で相次いで夭折(ようせつ)している」
    *「権典侍は基本的に天皇の側室なので、化粧料をもらってはいても、公の場には一切出られなかった」
    *「千種任子は昭和19年、89歳で死去。(中略)明治天皇が逝ってから、千種任子は三十数年を一人生きざるを得なかった。まさに<未亡人>のひっそりとした暮らしであったろう。自分で生んだけれども育たなかった皇女たちのことなど、どんな想いがその胸に去来していただろう。千駄木林町の千種邸のあとは、今も国有地である(後略)」

     つまり、千種任子が「ご落胤(らくいん)」として堀川辰吉郎を生んだなんていうのは「フィクション」であろうということです。当時の皇室の状況からして、なかなか皇子様がお生まれにならなかったのですから、「御落胤」あつかいなどされるわけがありません。

    中丸薫とは一線も五線も画したい副島隆彦の場合は、そもそも「父親が堀川辰吉郎というのがウソだ」として、以下のような自説を披露している。(転載の転載なので、オリジナルのソースは不明)

    火の鳥ホットライン:あの中丸薫が「明治天皇の孫」というのは、真っ赤なウソ!!(2004/5/5)(=副島隆彦の説)
    『中丸さんの父は韓景堂(かんけいどう)と言って、450年続いた満州の旧家の長男で豪農の出身であり、理工系の大学を出て当時は京奉鉄道の技師でした。

     母は中島成子(なかじましげこ)、栃木県小山市出身で、これまた豪農の家の7人兄弟の3番目に生まれ、日赤の看護婦さんとして満州に渡り、帝国陸軍から張学良(ちょうがくりょう)邸に派遣されそこで韓景堂さんと恋愛結婚、姉一人、弟一人の三人兄弟です。当時の中国の風俗習慣をご理解戴きたいと思いますが、韓景堂さんには何人も奥さんがいたのです。
     しかし皆正式に結婚した夫婦です。イスラムには4人までと言う宗教的な限度がありますが、当時の中国には正夫人が何人もいたのです。従って中丸薫さんは正式な韓景堂の子供です。韓景堂さんは国共内戦の時には戦禍を逃れて、最後には台湾に行き、大学教授で晩節を全うしました。従って大陸、台湾共に腹違いの人脈があります。生後すぐ中島成子さんの弟夫婦にあずけられ、実父母との縁薄く育ちました。
     明治天皇との血縁は有りません。昭和31年にアメリカのコロンビア大学に入学しております。サッチーと異なりチャント卒業しております。中丸さんは昭和12年生まれなのでこんな事を言うのですが、昭和31年、又は昭和32年頃に日本の高等学校を卒業して、アメリカの大学に進学出来ると言う制度はありませんでした。
     昭和32年に母中島成子は中共の監獄から無罪として釈放されて日本に帰ってきておりますが、其の時は中丸薫さんはコロンビア大学の2年生で、アメリカにいました。
     母子が何処かで出会ってはいるでしょうが、親子の縁は薄い方です。中丸さんの本をよく読んでも、明治天皇の孫とは断定していません。口の中から細胞を取り出してD.N.A.鑑定をした……そこまでです。

     中丸さんを米子市にこれまで3回迎えて、講演会を開催しました。私はその主催者ではなく、サブの位置につきました。彼女が明治天皇の血を継承していない事を、幹事会の席上で、私が発言しましたので、何かこう気まずい空気となり、2年半前に米子で開催されて以来当地では開催されていません。』

    このDNA鑑定は、中丸薫に注目する人たちの間では話題になった。歴史が塗り変えられるからである。

    中丸薫女史が大室天皇を肯定か!
    実は、中丸女史の今回の著書の中での彼女と大室家の方とのDNA鑑定の件は、既に2001年春から聞いていた。日本では信用できないからアメリカに送って検査をすると言う事で、8月頃この仕掛け人(社?)の大手○○新聞紙上にて記事にするとの事であったので、心待ちにしていたがその後そのまま無しのつぶてであった。

    「大室家」とは、明治天皇替え玉説で登場する「大室寅之祐」の家系のことだ。2006年になっても、無しのつぶてである。

    こんな批判でくじけるような中丸薫ではない。彼女には「神」がついているのである。

    帝國電網省喫茶室:過去ログ66(2004.11.1~11.30)
    投稿者:八神邦建 2004/11/9
     ちなみに、この中丸薫が27年前に宗教法人GLAの二代目教祖(現教祖)になりたてだった高橋佳子が書いた本に寄せた推薦文を掲載しておきます。この宗教が、幸福の科学とパナウェーブの原点になったことを象徴するような「人脈」ですね。

    『真創世記・地獄編』(祥伝社 NONBOOKS・1977年3/30初版)カバー袖推薦文

    「私たちに価値観の転換を迫る   国際政治評論家 中丸薫
     かつてないセンセーションがここにはある。常識、知識という鎧(よろい)に身を固めた私たち現代人には計(はか)り知れない世界がここにはある。不可解という容易な否定を許さない真がここにはある。私たちに価値観への転換を迫るものがある。自らの存在理由とアイデンティティーを模索する現代人への明快な解答がある。なぜなら、ミカエルに触れる時、私たちの心に勇気と知恵がほとばしり出る。このエネルギーこそ、真実の奇跡だからである。今、輝かしき世界への飛翔がミカエルの翼に約束された。」

    宗教法人GLAは、2代目高橋佳子の『真・創世記』が大ヒットして、私も夢中になって読んだ口である。GLAの分派団体「心のつどい」は、現在「日本会議」にも所属している。

    GLA初代の高橋信次は、人の過去世を読み取って、過去の「異言」を話し、それを瞬時に解読する超能力者である。余談ながら、この流れの影響を受けているのが、書店で本が溢れかえっている大川隆法の「幸福の科学」である。中丸薫の「霊能力」の触媒となったのは、GLAの高橋信次なのだ。

    話題のトピックス:邪馬台国と卑弥呼(=高橋信次の言葉)
    1975年(昭和五十年)3月、宮崎の研修会では、「この人は過去世において卑弥呼であったことを思い出しております。奄美大島から来られたこの二人のご婦人は卑弥呼の女官をしていた方達です。東京でデザイナーのG堂さん、映画俳優の中丸氏の夫人の薫さんは、ともに卑弥呼の大臣をしていた人達です。卑弥呼の過去世を思い出したこの人を中心として、この人達が卑弥呼の時代を思い出すと、今までわからなかった日本の歴史がはっきりとします。邪馬台国は有明海を中心にしてありました。」

    高橋信次によると、中丸薫はかつて「卑弥呼の大臣」をしていたのだ。

    人間・高橋信次
     昭和四十九年のある日

     明治天皇の落胤の娘である中丸薫氏が、大阪の講演会に信次を訪ねた。中丸氏は個人的外交官として、諸外国の王、大統領、首相と直接に逢うことの出来る人である。中近東のオーマンの砂漠を走っている時、突如として天から「祈れ」と声がした。車から降りて、砂の上にひざまづいた時、再び「身につけている宝石、貴金属はみなはずせ」という声がした。しばらく祈って目を明けると、何百万もする宝石、貴金属がみな失くなっていた。探したが、見つからなかった。日本に帰って来て、信次のことを知った氏は、八起ビルを訪ねたというのだ。すると信次は、いきなり「オーマンでは大変でしたネ」と指摘した。

    中丸 薫の活動のあゆみ
     私の人生において大きなターニングポイントと言える1976年のこと。私はある精神的指導者と出会いました。そして、いつもいつも心の中で繰り返されていた、人生の意味や魂のテーマについて理解する、的確な導きをいただきます。すでに亡くなっていた父の魂が、天上界にある今もなお娘の行く末を見守っていると伝えられ、魂は永遠であることを実感したのです。

     さらにその後、私は大変貴重な体験をします。アラブ首長国連邦を訪れザイド国王との謁見を終えた後、なぜか急に祈りたい気分になり浜辺に出て腰を降ろしました。心を静め、3つの問いかけを思い浮かべながら黙想していると、突然、海を引き裂かんばかりの雷光が走り、すさまじい音と共に雷が辺り一面に次々落ちてきたのです。不思議と恐怖は感じず、私はさらに神にすべてを託してひたすら祈り続けました。
     ふと天空を見上げると…、大きな光の柱が降ってきて、私の眉間を直撃したのです。光が身体を突き抜けていった後は、何とも言えない清々しさと調和に包まれた感覚でした。

    中丸薫は1976年に「天啓」を受けて、現在の活動に及んでいる人なのだ。その意味で彼女の真髄は「国際政治」でもなく、「明治天皇の孫」でもない。国際金融財閥の悪に立ち向かう「闘う巫女」であり、「国際派シャーマン」なのである。
    (「明治天皇の孫」は権威づけに役に立ったかもしれないが、その事実がないとすると、先々の展開が少々心配であるが・・・)

    不思議なことに、中丸薫も「大本教」の系譜なのである。

    父親とされる堀川辰吉郎は、

  • 宮崎滔天や梅屋庄吉と共に、中国で孫文の辛亥革命(1911)を支え、
  • 大本教と連携する「紅卍会」の会長となり、
  • 帰国後は「国粋会」の会長を務め
  • 大本系の岡田茂吉の「メシヤ教(世界救世教)」の名づけ親となり、教団最高顧問となった人物

    なのである。

    また、GLAの高橋信次は、大本教の直接の弟子ではないが、「王仁三郎という人は菩薩界の人で日本の宗教の誤りを覚醒させる使命のあった人」と語る、大本教シンパである。大本教から独立した「生長の家」とのつながりも強い。

    いずれにせよ、堀川辰吉郎の話は、『日本を動かした大霊脈』を読んでみないことには始まらないので、いずれまた。









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