1993.09
★”お盆”を考える
霊が賑やかにひしめくお盆、
”墓参り”のホントの意味に驚いてみよう

 8月、お盆という時節は、一年のうちで最も多く同級会が開かれる時期だそうである。
 たしかにお盆は、田舎から都会に出ていった仲間が大挙して帰郷してくるのだから、同級会には絶好の機会だ。
 「うーいッ、悪いねぇ、酔っぱらって同級会に出てきたのは俺だけかい?」
 「おーッ、しばらく! 俺も酔ってるから、心配すんなーー」
 などと、“新盆”の振舞い酒に酔った同級生同士が、開会前から盛り上がってるという光景は、お盆の同級会ではよく見られる。
 「やー、やー、きょうはつぶれるまで呑むから、あとは頼むぞーッ!」
 というのが、もう一人現れると、宴席は開会直後から“盆と正月が一緒にきたよう”になる。
 この“盆と正月が一緒にきたよう”という表現は、うれしいことや楽しいことが重なり、非常に慌ただしい状態をいうが、盆と正月を比較すると、盆のほうが何倍も賑やかだろう。というのは、お盆は人間様だけで賑やかになるのではないからである。
お盆の由来は”怨霊鎮め”
 “お盆には地獄の釜のフタも開く”という古い諺のとおり、先祖の御霊だけではなく、怨霊や亡霊たちまでがゾロゾロと娑婆に帰ってくる。だから、お盆の時の地上界は、実は、おどろおどろしくも騒々しいほどなのだ。
 お盆の最中、バイクを駆って檀家回りに大忙しのお坊さんは、「若く死んだ仏様が出た家では、特に念入りにお経を上げる」と言った。この理由を尋ねると、「しっかりお経を上げて成仏してもらわないとタタることがありますから…」という答であった。
 盂蘭盆(うらぼん、お盆のこと)は、現代では、ご先祖様に感謝するための一種の供養のようになっている。しかし、その由来は、実は“怨霊鎮め”にある。
 ここで私が思い出すのは京都の大文字の派手な送り火である。送り火は、お盆に帰ってきた先祖の霊が冥土に戻る際、暗い道で迷ったり転んだりしないように前を照らしてあげるためのものである。普通は、盆提灯でささやかに照らしてあげればよい。
 ところが京都の大文字焼きは、あちらの山でもこちらの山でもジャンジャンと派手に火を燃やして、東男の私の目にはほとんど山火事寸前。
 「昔から京都は、戦乱や疫病で大量の死人が出たところ。だから、盆に帰宅した膨大な数の怨霊や亡霊が、冥土や地獄に戻る今、あのくらい派手な送り火を焚いてあげないと亡霊たちも困るんだろうなぁ」と独り言を言うと、友人の妻の京女が、「そうどす」という返事
”怨霊封じ”仕掛けの都
 考えてみれば、京都の夏の名物である祇園祭りも、御霊会(ごりょうえ)という“怨霊鎮め”の祭りにその起源をもっている。 いや、もっと言えば、京都は、街全体が怨霊封じの仕掛けに満ち満ちた都なのである。
 京都、平安京は、桓武天皇が造営した都であるが、桓武天皇は平安遷都の前に長岡京をつくっている。
 この長岡京建設の最中、造営長官藤原種継が暗殺されてしまう。桓武天皇は、皇太子である実弟の早良(さわら)親王を種継殺しの首謀者として逮捕し、遠島送り処分にする。これに抗議をして早良親王はハンガーストライキするが、やりすぎて餓死という無念の最期を遂げる。36歳であった。
 早良親王の憤死のあと、桓武天皇の身辺には不吉な事件が連発する。この原因を陰陽師に占わせると、「相良親王の怨霊の祟り! 」(『日本紀略』)と出た。
 こうなると、平安京への遷都は、不吉な祟りの都である長岡京から逃れるためであったと言えるだろう。
 こうして、平安京への遷都は、その出発点に“怨霊封じ”という目的があったのである。
 羅城門や東寺、西寺の建設、さらには鬼門をガッチリと守る延暦寺を最澄に開山させるなど、今度こそ桓武天皇は、新京・平安京を完璧な“怨霊封じ”の都にしたのであった。この完成した新都・平安京を一言で表現すると“仏教と道教が融合した都”と言えるのではないか。
道教・仏教を併せた”理想京”
 古来、秦の始皇帝、漢の武帝をはじめとする神仙思想(道教)のとりこになった中国の皇帝たちは、地上の都を天帝の都とそっくり同じものを造ろうとした。
 渡来人たちとの交際で中国の神仙思想に深い造詣をもっていた桓武天皇も、中国の帝王たちと同じ発想での都づくりを考えた。
 実際、長岡京は、神仙思想に基づいた“理想京”づくりであった。これは、弓削道鏡一派によって堕落させられた平城京の仏教にほとほと愛想を尽かしたことの結果であった。(実際、長岡京には、新しい寺院が一つも造られなかった。)
 しかし、この長岡京づくりは、藤原種継の暗殺事件によって失敗する。
 今度こそ! “怨霊対策”に万全の備えをもった“理想京”を建設するために桓武天皇は道教だけではなくて、仏教も採用する。桓武天皇は、平安京に遷都すると直ちに「神泉苑及び東寺西寺を起ち将軍塚を築く。」(『本朝通鑑』)
 この“将軍塚”の意味は何か?
天皇制成立の根幹に道教あり
 中国では、西北の方向は異民族が攻め込んでくる方向だ。そのため、この方向には戦争に強い道教の守護神である“大将軍”が祭られる。これが“将軍塚”である。(この“大将軍”、現在は、平安京の御所の西北隅に当るあたりに町名として残っているだけである。)
 さらに平安京と道教の関わりを述べると、例えば上皇のお住いである“仙洞御所”。これは完璧に道教の用語である。 皇室の先祖を祭る宮殿である“神宮”というのも、京都御所の“紫宸殿”も、その中央に置かれている“高御座(たかみくら)”も、全て道教の用語である。
 “天皇”という言葉自体、本来は道教の神学用語なのである。道教の最高神である天皇(天皇大帝)は、その神聖性の象徴として二種の神器を持つとされる。そして、この二種の神器とは、鏡と剣である。
 こうして考えてくると、天皇制は、その成り立ちの根幹に道教あり、と断言しても差し支えないと思う。(この解釈は、「道教は日本には渡来していない」し、「天皇家の奉ずる宗教は神道と仏教である」とする「世の常識」には反する考え方である。)
仏教とは無関係の”墓参り”

 さて、道教信者・桓武天皇の遺言は、「早良親王の冥福を祈り続けよ」というものであった。それほど桓武天皇は実弟の祟りをおそれていたのである。
 現代。私たちの心には、もはや怨霊をおそれるなどという気持ちはない。それでも、お盆になると、日本人はいっせいに帰郷して墓参りをする。そして、先祖の冥福を祈る。
 本来、仏教には墓を建てるなどという考え方はなかった。だから、“墓参り”という宗教的な行為は、本来の仏教とは関係のないものなのである。
 では、この“墓参り”という宗教行事は、一体どんな宗教なのか?
 この意味を本当に知っているのは、実は、美智子皇后であると思う。
 どうして? それは、私に電子メールをくれた人だけに教えてあげる、ということにしておこう。

注)筆者のメールはiiyama16@hotmail.com

TOP
ct
.
inserted by FC2 system