1992.10
文字・国家をもたない縄文人が形成した
地球規模の壮大なネットワーク空間のこと

★縄文人のネットワークに学ぶ旅その2〜縄文文化は”世界の文化”だった

 DOMとは、ダウンロード・オンリー・メンバーのことだ。DOMは、パソコン通信のメリットであるコミュニケーションの双方向性などには馬耳東風、ひたすらフリーソフトウェアをダウンードする。そして毎日毎晩、自分だけのパソコン環境を整備する。これはもうほとんど「環境オタク」だ。
 実は私もDOMだった。ところが『月刊パソコン通信』を愛読するようになってからDOMはやめた。付録のフロッピーディスクのフリーソフトウェアは厳選された優れものばかりだ。もはや、あちこちのBBSを「何か素晴らしいフリーソフトウェアがありはしないか」とウロウロする必要はない。
 まだメリットがある。今までは、あちこちからダウンロードしたLZH(圧縮)ファイルがハードディスクをやたらと占領していた。それが、付録のフロッピーディスクをキチンと保存しておけば、大切なハードディスクが使いもしないLZHファイルの倉庫がわり、といったことはなくなる。さぁ、思いきってハードディスクのなかから不要不急のファイルを整理して片付けてしまいましょう! と言って「知恵」を私に教えてくれたのはパソ通で知りあった友人だった。お蔭様で「使用可能ディスク容量」が60メガバイトも増加したものである。
縄文土器の比類ない独創性
 さて、知恵とかノウハウとか情報、あるいは文化、こうしたものは主として言葉で伝達され、文字を使って保存される。コンピュータのプログラムだって、もともとのソースは文字だ。文字こそは文化の基盤であり、歴史の母体といってもいいだろう。文字があるから歴史があり、文字のない時代の歴史は「有史以前」などと言われ「未開」というイメージがつきまとう。 しかし、文字のない時代の歴史は、本当に「未開」なのだろうか?
 たとえば縄文時代。「芸術は爆発だ!」の名セリフを残した日本を代表する前衛芸術家岡本太郎が、日本における唯一の優れた芸術と賞賛したのは「火焔土器」と呼ばれる縄文時代中期の土器であった。
 パリから帰ったばかりの岡本太郎の言うことには、画壇の天皇とも言われた梅原龍三郎の描く富士山の絵も「いたずらに八の字ヒゲをはやして威張っている田舎紳士の泥臭い絵にすぎない」ものだった。日本の伝統美の極致とも言われた飛鳥時代の仏像も、岡本太郎には、中国や朝鮮の模倣にすぎなかったのである。
 岡本太郎が激賞した「火焔土器」をレヴィ・ストロースはフランボワイヤン(燃え立つ炎)様式と名付けて縄文土器の比類のない独創性を指摘している。読者諸兄のなかに縄文土器の素晴らしさを知らずにきた方がいるなら、身近の博物館をたずねて、ほんの1時間でもいいから、あらためて見直してみるべきだ。縄文人が残してくれた遺物は、それこそ日本列島の全土からくまなく出土しており、日本中に数限りなくある博物館や郷土資料館や民芸美術館や公民館に展示されている。煩雑な日常生活を一時でも忘れて、遠い縄文の世界に思いを馳せる時間を、どうかお持ちいただきたいと思う。
日本列島は「情報発信基地」だった
 ここで注目すべきは、1万年以上もの間、豊かで高度な文明を花咲かせた縄文人は文字を持っていなかった、 ということである。しかも縄文文化は、日本列島のあらゆる地方に伝播して展開されたのである。エジプトのナイル文明にしても、中国の黄河文明にしても、チグリス・ユーフラテス文明にしても、いずれもがせいぜい5千年足らず。これに対して縄文文化は、実に1万年以上も継続して繁栄したのだ。しかも、くどいようだが文字はなかった。文字がないのに何故に高度な文化が広範囲にいきわたったのかという疑問は、ピラミッドがどのようにして作られたのかといった謎の比ではない、世界の文明史上、最大の謎であろう。謎のスケールがちがうのだ。
 しかも最近、西欧の多くの学者が縄文時代の日本列島は、「文化の情報発信基地」であったことを指摘している。1万2千年前、世界中に文明が発生してはいなかった頃、日本列島には縄文文化が誕生していた。縄文文化こそは世界最古の土器文明なのであり、当時の世界の先進文明だったのである。
 すなわち、 縄文文化は、日本列島を基点として広く環太平洋一帯に伝播していったのである。メラネシアやミクロネシアから発掘される土器もフィリッピン経由で伝わったし、東南アジアのバクソン文化やホアビン文化といった古い文化もその起源は確実に日本列島である。カナダのバンクーバー近辺で発見された青竜刀石器は日本の縄文中期のとほとんど同じものだという。こうして、縄文時代に限って言えば、文化は日本列島から世界へと伝わっていったのだ。
遠くヨーロッパにも伝播
 しかも、この文化の伝わり方は一方通行ではない。九州産の黒曜石が韓国の釜山で発見されたり、伊豆七島の神津島で採れる黒曜石が茨城県の縄文遺跡から発掘されたりして、交易の可能性さえ感じられるのだ。青森県の今津遺跡からは中国の周の時代の土器が発見されているし、韓国からは明らかに日本列島産である縄文土器が続々と発見された。縄文人は私たちの想像以上の規模で遠隔地と交流していたのである。
 ついでに驚くべき事実を1つだけあげておこう。約6千〜7千年前、北欧のバルチック海沿岸に「リトリナ海文化」という狩猟採集文化が発生した。この遺跡から発掘された土器が日本の初期縄文土器に酷似しているのだ。つまり、縄文文化は、遠くヨーロッパにも伝播していた可能性があるのだ。もし、北欧に行く機会があるなら、この遺跡を見学する日程を組んで欲しい。いや、北欧に友人がいるなら、こちらから縄文時代初期の「隆線紋土器」の写真を送るのもいいかもしれない。きっとスケールの大きな歴史談議がはじまるはずだ。
国家・国境のない時代
 以上のような事実は一体何を物語るのかというと、縄文人が生きた壮大なネットワーク空間の実在である。縄文人たちが生きた世界から見ると、現代に生きる私たちのチマチマとした生活空間が恥ずかしいほど貧弱なものに感じられてくる。縄文人は貨幣もパスポートもなく世界を股にかけた。むしろ貨幣(給料生活)やパスポート(国家)がなかったがゆえに縄文人は完璧な自由を享受していたのかもしれない。しかも彼等のエネルギー消費量は無限に小さかった。ジャンボなどという資源を大量に浪費し成層圏を乱しながら飛ぶ物体が地球を一周するときのエネルギー消費量と全縄文時代のエネルギー消費量がほぼ同じであるという計算をする学者もいるほどなのだ。
大洋航海を支えた水瓶・縄文土器
 こうして考えてくると、「日本列島は島国である」ということが何の意味もないことが分かってくる。地図でみてみると、日本国が島でできている国であることは間違いないことのように思える。しかし、海を重点において地図をみると、島も大陸も全部つながってしまう。黒潮や親潮などの巨大な海流を大海の上にできた道と考えれば、日本列島はアメリカ大陸ともつながっているし、太平洋からすれば日本海などは小さな池でしかない。事実、縄文人たちはそう考えて、いとも気楽に日本海や黄海を往来していたのだ。
 聞いて驚くなかれ! 大洋を渡る船は全長6〜7メートルのカイ付きの丸木船だった。この船は、全国の縄文遺跡から現在も続々と発掘されている。大洋を渡るのに食料は要らない。釣針が7〜8本あればいい。魚はいくらでも釣れる。海鳥は手づかみだ。問題は、真水。最低10日に一回はスコールが来るから、水を蓄えるのに縄文土器は格好の容器なのだ。縄文土器は、宗教的な行事用のものだけではなかった。ともかく海を渡るために、土器は必需品だったのである。縄文土器とは、ただ単に縄文時代を象徴する芸術であるということではなくて、縄文人の生活と世界を物語る「縄文の歴史のすべて!」なのである。
「日本人」概念形成は8世紀以降
 もちろん縄文時代には国家などというものはなかった。国境などというものがなかったからこそ、人間が何処にでも自由に行けたのである。だいたい、日本人、中国人などという区別は、たかだか千年程度の歴史しかない。韓国人にいたっては、せいぜい40年の歴史だ。だから、「倭=日本」などという国史学的な概念は全く信用しないほうがいい。「日本人」という観念は、8世紀以降に形成されてきたもので、邪馬台国の時代である3世紀ごろの「倭人」とは一緒にするほうが無理なのである。たとえば三国時代、「倭人」は、江南地方、内蒙古東部、遼東半島、朝鮮半島南部、日本列島と様々な場所に住んでいた。彼等の世界は、現代に生きる私たちの世界とはスケールが違うのである。
 「倭=日本」などと勝手に決めてしまったのは江戸時代以降の歴史家たちだ。それ以来私たちの歴史と世界観は、チマチマと狭くて窮屈になものになってしまった。実際、私たちの活動する世界は、観念的にも現実的にも狭くて窮屈だ。
 ……もっと広い世界を! そう願っても、私たちは生活に追われ、縄文人が生きた自由で壮大な世界を取り戻せそうにない。
 ただ一つ、パソコン通信こそが、私たちに広大な世界にはつらつと生きる自由を保障してくれるような気もするのだが……。
              (飯山一郎)

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